「正社員と非正規社員の差別がなくなると何がどう変わるのか」って、差別がなくなります。

賃金が正規社員の半分ということだけではなくて、派遣切りや雇い止めのように雇用の調整弁だし、同一価値労働どころか危険で汚い部署に非正規労働者を配置するということもよくあることなのだ。そして寮生活における拘束事項なんてのも多くて、プライベートな時間まで正規・非正規間に差別がある。

正社員と非正規社員の差別がなくなると何がどう変わるのか――イギリスの労働者視線で見た「同一価値労働同一賃金」の恩恵と日本への教訓|DOL特別レポート|ダイヤモンド・オンライン
イギリスではパートタイムもフルタイム同様正規雇用であるので、時給・手当ては「正規」と同じである。つまり、収入や手当ては勤務日数に比例するのだ。

正規とか非正規なんて括りがある自体、国家が差別を容認しているようにも感じる。だって「非」なんだし。だから「差別がなくなると」差別がなくなるということなのだ。
正規社員側も組合もそういった差別に対して何も言わないのは、彼らこそ差別をしている張本人であって、そのことによって利益があるからなのだ。「非正規なんてなくなればいいのに」と誰もが思っているに違いない。人道上やらなければならないことだけれどやれない、良いことなのだけれど悪いこと、なんてパラドックスに思考停止している状況なのだと思う。
雇用の調整弁というよりも正規社員の安全保障を担保するのが非正規社員ということ、としたら、まるで米軍の問題と同じようにも感じる。抑止力になっているのが非正規社員で、「この会社からなくなればいいのに」と思っていてもそれに替わる人たちがいない。まさか自分たちやその子供を戦地に送るなんてことも出来ないし、近所に基地が来てもらうのも困る、なんて状況。
主権国家であろうとすればするほど、軍事属国から脱去したいと願えば願うほど、沈黙してしまうというような状況と同じで、この国の労働市場、雇用環境は病んでいるように思う。
一方、日本では、厚労省のデータによれば、正規雇用の時給が1889円に対して、パートは1018円であるから、ほぼ半分になってしまう。これは2人が指摘するように明らかにフェアではない。やる気も責任感も出てくるはずがない。
作業マニュアルで、そのやる気や責任を持たなくても作業品質を高めることも出来る。あるいは自尊心を利用してやらなければならないようにする、なんてことも考える。日本企業の利益やコスト意識は、労働者さえもいかに効率よく使うかということに対して、莫大な設備投資をしてきたと思う。いかに効率よく、要するに労働とは使役とほぼ同義なのだ。特に大量生産の現場、日本の基幹産業においてはそういうことが顕著だし、非正規社員の雇用率が高い。
「正社員と非正規社員の差別がなくなると何がどう変わるのか」というと、当たり前のこと、多くの人が考えることを止めてしまったこと、あるいは思考麻痺していること、「差別」がなくなるのだ。同一価値労働同一賃金でないということはそういうことなのだ。高い賃金をもらっている人たち、正規社員は「私は差別しています」と堂々と宣言しているようなもので、恥ずべきことなのだと思うのだけれど。そんなことを平気でしていながら、人種差別には涙をながしたり、動物愛護に関心があったり、環境問題に造詣が深かったりするのを見ると、なんだかなあ、なんて思ってしまうのだけれど、それとこれとは話は別なんだろうか?
人間なんてのは利己的な生き物ではあるのだけれど…。それでも、そういう利己的利得国家になると、「基地なんて沖縄の問題だから関係ないよ」とか「牛?宮崎の問題だから、早く殺せよ」なんて国になって、いよいよ住みにくくなると思うのだけれど…。
ま、それでも、我が身が一番かわいいか。オレだってそうだし。ね?
神野埠頭
神野埠頭。三河港は自動車輸出入額日本一なのだ

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