テザ 慟哭の大地・・・

1985年・・・
ボクの人生を少し変えた、一枚の写真と一曲のうた・・・。
衝撃なんて言葉とはちょっと違う、少し恐怖を伴った痺れた感じ・・・、その写真から目を逸らすこと自体、犯罪であるかのような、そんな罪悪感の縄に足首を縛られてしまって、かなりの時間、少し神経が麻痺して、身動きができないでいた。
アフリカは飢えて餓えていた。この国はバブルと呼ばれる時代の黎明期だった。そのニュースは、今と同じぐらい、ほとんど流れることはなかった。いや、ネットなんてものがなかった時代、次の朝には簡単に人々の記憶の片隅に、いや片隅からも葬り去れらていた。
1974年、その年の10年前、エチオピアは皇帝ハイレ・セラシエ一世が廃位、1977年にはメンギスツ・ハイレマリアムの臨時軍事評議会が社会主義国家建設を宣言した。内戦状態は、それで終わったわけではなかった。常に内戦状態が続いていた。そしてそのことが直接的間接的に飢餓の原因にもなった。人々は安らぐことがなかった。朝霧のように、一瞬の輝く時間はあったとしても、それはにわかに消え去ってしまう。
あれから25年もの月日が流れた。四半世紀、ボクたちは一度たりとも飢えたり餓えたりすることはなく生きてきた。水が飲めないという状況など誰一人経験したことがないはずだ。
1985年 『Ethiopian Famine』
1985年 『Ethiopian Famine』 (エチオピア) : 【Pulitzer Prize】 ピューリッツァー賞 写真部門 受賞作一覧 – NAVER まとめ
25年前、死線を彷徨った女の子も無事に生きていれば、結婚して子供を産んでいるのだろう。
そしてこの写真と同じように、今度は母親となって、絶望の眼差しを落としているのだろう。同じことが、たった25年で繰り返される。それは歴史のという時間のスパンで考えるのなら一瞬の出来事なのだろう。朝霧のように、一瞬の輝く時間はあったとしても、それはにわかに消え去ってしまった。
ボクは、もうあの頃のように余裕もなく、そしてあの頃のようになにかに突き動かされる心の豊かさもなくなってしまっていては、「もうきっと、こんな運命なんだよ」なんて考えている。ボクがあの頃彼らに語っていた夢なんて信憑性のないことを、今はボクがボクに言い聞かせて、明日なんてこれまた漠然とした時間の向こう側に少しだけその夢の欠片の転がっていることを、神に祈るような毎日を過ごしている。
生きていれば良いことがあるなんてことも思わない。
もしかしたら死んだ方が楽だということもあるのだろうし。それはこの写真のようにまた次の四半世紀後には彼女の子どもが同じような写真に収まっているということの可能性のほうが大きいのだし…。そしてボクだって、この25年間、ほとんど同じような生活を、同じような苦悩を抱え込んで生きてきたのだし…。
また朝が来て、また同じ苦しみが訪れる…。その繰り返しなのだ。
映画『テザ 慟哭の大地』公式サイト
東アフリカききん、さらなる資金が必要 国連の対策遅れも指摘される |国際|キリスト教インターネット新聞クリスチャントゥデイ

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