日本のタクシー

日本ではタクシーなんて贅沢な乗り物をほとんど使わないボクなのだけれど、海外を旅している頃には必要にせまられて(時間とか治安とか地理的な問題がほとんどなのだけれど)よく使った。
日本のタクシーほど快適で安全で清潔で安心できるタクシーはないと思う。夜中に酔っ払って熟睡できるほど快適で安全なのだ。そんなことを例えばアフリカなんかの国でやっていたらきっと遠回りされた上にかなりぼったくられるに違いない。それだけなら良いのだけれど身ぐるみ剥がされて何にもにところに捨てられる、なんてことも考えられるし、そういう話も聞いたことがある。
というボクもインドでは身ぐるみ剥がされたのだけれど、どんなに用心していても(というかあの頃は用心が足りなかったんだろうけれど)人ってのは24時間365日その用心深さという緊張感を持続させることは難しい。
たとえメーターが付いていたとしても、料金交渉から始めるのが発展途上国のタクシーの乗り方だった。運転手の言い値が妥当なのかということが分からない時のほうが多かったし、双方(運転手と外国人旅行者)の間にはそういった交渉ということが前提になっていて、タクシー料金も初めから高めに言うなんて、ま、バナナの叩き売り原理みたいなものがあるのだろうと思っていたので、とにかく値切った。
結局どちらかが降りることによって値段が決まるのだから、「しかたねえな~」なんて心理状態で車中の雰囲気はやや重くなる。「ちっ、ケチな日本人を乗せちまったぜ」なんて運転手は思っているのだろうし、「ふん、初めからこっちの言い値で行けばいいんだよ、はあ~疲れた」なんてこっちは思っているのだから。
ダルエスサラームで乗ったタクシーはとても親切なドライバーで、「お腹は空いてないか、時間があるんならうちで食べないか」と誘われた。そしてそうした。ついでにサービスだと言って市内観光もしてくれた。それは下心なのか、あるいは支払った値段が過大なものだったのか、今は分からないけれど、その夜も次の朝も、結局そのタクシーを予約することになって、まあ、結果的にはボクも安心と快適さを買うことが出来たし、彼にとってもそれはよかったことなのだろうと、思う。
日本のタクシーは快適で安全である。料金の交渉をすることなく(たまに岡崎まで一万円で、とか、新居まで五千円で、なんて人はいるにしても)確実に、そしてほぼ適正な値段で目的地まで届けてくれる。届けてくれるのだ。それは荷物を届けてくれるほどの質量でしかないようにも感じる。
運転手は「荷物」と「人」の違いも分からないまま運び、お客様はまるで何か商品を買うほどの感覚で乗車し支払を終える。それはそれで快適なことなのだろう。他者との関係性を排除することによって快適さを追求してきたボクたちの希求した社会の姿なのだろうし、そしてその関係がお金を通して客と店員、客と運転手なんてキッチリした上下の関係しか築けない社会にしてしまった結果として、人と人という当たり前の関係を捨ててしまったんだろうし。
ボクたちが忘れてしまった値段交渉、「いくらで」というのは客側からの懇願みたいなもので、「雨に降られて大変だね、今日はサービスととくよ」なんて運転手(店側)の情で値段が決まるのだろう。そしてその意気に対して「運転手さん悪かったね。これはチップだよ」と満足度に対して値段以外の料金を支払う。
それがこれまで普遍的に行われてきた人類の商行為(経済)だったのだろうと思う。人情が値段を決めていたのだろう。それがなくなってしまった社会では、人々がロボットとなって何一言しゃべらなくても生きて行けるようになった。
というか、そういう無駄の排除こそが安全で快適な社会だと思っているのだろうし…。
値段交渉がある社会が住みやすい社会だというのではないけれど、なんだかもう少し優しい関係ってのがあるんではないかと思う。「買ってやる」「売ってやる」じゃなくてね。若いお兄さんが自分の祖父ぐらいの運転手に「運ちゃん」なんて口を聞いたり、「客だぞ」なんて言ったり態度を取ったりするなんことが昔よりかなり多くなったってこと、それは快適とか安全とかと引き換えに何かを捨ててきた結果なんだろうなあ、なんて思ったんだけれど。
まあ、今さら何を言ってるんだ、ってことなんだけれどさ。さて、寝るか。
豊橋市電
ちぎり賞争奪競輪電車

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