処暑、藤圭子さんの死で考えたこと

結婚って誰が幸せになるんだろうね?
なんて話すと、みんな黙ってしまう。
寂しさゆえに恋が芽生え、なんて感じでできちゃった婚の人なんてのは、その瞬間は幸せだったりしたのだろうけれど、例えばそんな計画性のない人が人生を計画的に設計できるかというと、まあ、出来る人もいるだろうけれど、大半はその「できちゃっちゃ」的な人生で、家族ともども全員幸せです、なんてことはないと思う。
でも、「じゃあ幸せってなんですか?」てことになると、ボクの考えている幸せと、あなたの考えているそれが違っているのも当然なんだけれど、それって親の言い訳だったりエゴだったりするんじゃないのかなあ。ボクが親だったら子どもに「うちは貧乏なんだから我慢しなさい」とか「貧しいから大学になんか行かなくていい」なんてことは言いたくないし、子どもがやりたいこと以上のことはさせてあげたいだろうし。
でもやっぱりそれって親のエゴで、親の幸せで、子どもにとっては幸せなことではなかったりもするんだろうね。でも、貧乏ってのは連鎖するもので、というか、生まれもった才能がそこそこの子どもでも、教育に対して潤沢に出費できれば、才能以上の能力を発揮するだろうし、それはどんな世界でも同じことで、というか、才能とか可能性を引き出されることなく人生が終わってしまったりもするのだろうし。
まあ、学歴が全てではないのしても、各自の才能を見いだせるかどうかなんてのは、親の学問にたいする信憑ということに関わっているのだろうしね。天才は別なんだけれど。貧困層に「学校なんか行かなくても良い」という家庭が多いってのは別に新しい事実でもないんだけれど。
ボクたちは幸せだったと思う。ある時期まではね。ボクが不幸の原因であって、「ある時期までは」というか、今もボクを除いたみんなは幸せに暮らしていて、人並み以上の生活をしていると思う。家族の恥部がボクなのかなあ。そうしてイジケテしまってその役を一生懸命演じているのかもしれない。
もうたぶん家族の誰とも会うこともないのだろうけれど、というか、そう考える方が「不幸である自分」である幸せを感じることも出来るし。内在する被害意識による幸福、なんてことなんだろうか。
辛抱強く、ボクのことを気にしてくれている母とか下の姉なんてのには感謝しているし、たぶん、彼女たちが抑止力になっていて、ボクが自暴自棄にならないでいるんだろうけれど。家族なんてのは、というか、共同体ってのはそんなものんで、恥の文化ってのも、その家族や共同体ってのもから派生しているのだけれど。
母はボクを産んだことを幸せに思っているのかなあ。生まれてきてすみません、なんて太宰じゃないけれど、つくづくそう思う。
藤圭子さんの自殺報道を見ながら、そう思ったんだ。
2013年処暑にて

3件のコメント

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    心の病でしょうか?本人が亡くなってるので真実は判りませんが。ところで職安の求人票ですが、以前のように求人年齢や性別が書いてあった方が良いですね。年齢・性別不問なんて書いてあると、職探ししてる方は勘違いしますから。

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    大学に関しては未だに金持ちが行くところで「普通の」家は高校までで十分と考えている家もあるような気がしています。
    ただそうであれば「そこそこの」高校に行かないと駄目なような気はしますね。
    ほぼ100%進学する高校だと体面からか何がなんでも進学させようとの方針になるだろうしそういった高校に求人はまず来ないから就職への指導もままならないと思うからです。
    愛知県は比較的高卒での求人も多いせいか工業系の高校が一種のエリートコースとなっているようにも感じますね。それ言うなら学園もそうかもしれませんが。
    子供からの仕送りに頼っている=結婚されると自分達の生活が苦しくなるからとの理由で子供の結婚に反対する親も居たりしますがそれも親のエゴではないかと思ったりもします。
    見方を変えれば結婚しても常に妻子より親を優先するような人は結果的にうまくいかなくなることも多いように思えます。同居していないのなら尚更です。

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    自暴自棄にはならないで
    ( ´ ▽ ` )ノ

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