芝浜を聴きながら

大晦日、「芝浜」を聴く。

「お前の持ってくる魚は生臭くていけねえや」
「旦那ねえ、魚ってのは生臭いのはしょうがねえんでさあ」
「冗談言うねえ、魚ってのは本当は生臭いもんじゃねえんで。じゃあどうして生臭くなるかって言うとなあ、魚ってのは、しばらく置いとくとだんだ様子が変わってくるんだ。魚のほうが『こいつはいけねえ、下手すると魚と見られねえ』と思うから、『わたしは魚でござんす』と、口が聞けねえから、一生懸命臭いを出して生臭くなるんだ。
人間だってなんだってそうなんだ。それだけ身体がある人は臭いを出さないよ。身体がねえやつは、そういう風に思わせようと思うから、みな肩をいからせて歩いているんだ。それと同じだ。
魚にそんな苦労をさせてすまないと思わないか。臭いのは魚だけじゃねえぞ、てめえもここんところ酒臭くてしょうがねえや」

「芝浜」、志ん朝師匠の「芝浜」の一場面であると言ったほうが良いのだろう。多くは「ねえ、お前さん起きておくれよ」と、勝五郎が女房から起こされる場面から噺は始まるのだから。そしてボクは「芝浜」のこの場面が好きなのだ。
ボクたちはすでに「魚は生臭い」という観念の中にどっぷりとはまってしまっている。それは、食べ物と真っ当に向き合っていないからだ。加工技術や保存技術の発展がボクたちの感性までも干上がらせ冷凍してしまった。ボクたちは形のない食べ物をなんの感情のないまま口にする。その魚の名前を知らないまま口にする。
だから食品偽装や食材偽装なんて問題が起きる。だってボクたちは彼ら/彼女らのことを、その名前さへも知らないのだから。そうしてその姿カタチなんてものだけではなくて、においまでにも無知で「生臭いもの」なんて偏見をもって接しているだから。
感じる力の喪失が食物/他の生命への冒涜となってしまっては、ボクたち人間はさらに傲慢に利己的になってしまっているのだ。
芝浜という物語は労働と金、狩りと食事、という生命の本質を問いかける。脱野生化したヒトは、貨幣社会に入ってその単純な生命の仕組みを複雑にしてしまった。
「夫婦の愛情を暖かく描いた屈指の人情噺として知られるようになった」とウィキペディア(芝浜 – Wikipedia)には解説されているのだけれど、それだけではなくて(というか、それ以上に)人間が生きていくということの本質がこの「芝浜」に描き出されているだ。
生臭い魚(のようなもの)を食べることに慣れきってしまったボクたちは、生きるという主体から離れてしまっていて、もうすっかり生かされているということ、それは国家や企業やあるいはスーパーマーケットやマスコミなんてあらゆるものに依存しなければその生命さえも維持できなくなってしまったという家畜化ということを意味していていて、自由なんてものはもうとっくに遥か彼方へ捨ててきてしまったということを、そして金臭いヒトになりきってしまっているということに…気づいたところで、もう手遅れなんだけれど…。
2013年も終わる。
なにもなかった、ということが平和な一年だった証拠なんだろう。
これからボクは買い物にでも行こうかと思っている。明日も明後日もコンビニが開いていて、取りあえずボクは餓死するということもなさそうなのだけれど、パックにラッピングされたボクの感覚と見事に遮断された魚を買って、それをアテに酒を飲もうかと思っている。そしていつものように寝て、いつものような朝がやってくる。
ありがとうございました。
吉田城から豊川

2件のコメント

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    しおまるさん、おひさしぶりですね。
    お元気でしたか?
    こちらは、まあ、なんとか生きているって感じです。元旦は休みだったのですが、何もせずに、ほんとテレビも見ずに天井を見て過ごして、気づけば夕方です。
    初詣かあ…。
    素敵な一年でありますように。

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    今晩は。今年も最後ですね。0時過ぎたら町内の神社にお参りに行って寝ます。起きたら新しい年の始まりです。こうしてまた一つ歳をとっていくのですね。まあ平和な毎日の繰り返しが一番なのですが。

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