高齢労働、香嵐渓の夏
タクシー運転手には高齢労働者が多い。年金受給しながら「孫のこづかい稼ぎ」「パチンコ代」なんて言いながら働いている。いつまで働くんだろう。
ボクは、転職願望みたいなものから逃れることができなくて、というか失踪願望(ボクの場合はすでに失踪しているようなもんだから、それほど社会的に影響はないだろうし、探す人もいないんだけれど)、いや消滅願望というのが正しい、そんな欲望が、ある。
楽しいことがない、ということがその原因なのかもしれないし、その予感なんてものよりは不幸の予感のほうが圧倒的に多いのだから、悲観的になる。どうやって生きるかというよりも、どうやって死ぬかということのほうを考えるのだから、困ったもんなのだ。
年金の支給年齢が引き上げられて、定年も65歳なんてことになる。
ボクとしては55歳定年でそれぐらいから年金も支給してほしい。高齢労働者、なんて言われるのも嫌だ。孫のこづかいも稼がなくていい。そもそも孫がいない。パチンコ代も、いらない。
生産も消費もしない、ただボンヤリと一日を過ごす、そうなればそうなったで退屈でしかたないか。
香嵐渓に行った。
紅葉が有名なのだけれど、モミジの若葉が輝いていて、キラキラ光る川面を背景に、透明感のある風景、初夏の香嵐渓もすばらしい。
ひとごみが嫌いなので、紅葉シーズンには行く気がしない。
ああ、それも不幸なことなのだろう。
あのモミジが赤く色づいたとしたら、またすばらしい風景なのだろう。花子ではないけれど、想像の翼をひろげてみると、その劇的な風景を観ることなく人生を終えることの不幸さを思う。
「60歳で期間工は無理か」なんて質問があったのだけれど、無理だと思う。
若いころから期間工として働いてきて継続的に雇用されている年配の方はいた。でも、そういう人は稀なケースで60歳での応募は難しいと思う。それに、工場の生産ラインで働くなんてことはやっぱり無理だと思う。
生産ラインでは無理かもしれないけれど、そういう働き方も高齢化社会において考えなければならないのだろう。
65歳までをどうするか。あるいは、年金受給年齢が70歳なんてことにもなりかねないとしたら、「日本の雇用と老人」なんてことを考える時期かもしれない。「日本の労働市場と高齢労働者」あるいは、生産性の話とか。
というか、これも自由な働き方が出来るような仕組みにしてもらいたいと、早々とリタイヤして余生を送りたいと思っているボクなどは思うのだ。
国家は徴収と支給の収支バランスを保つことしか考えていなくて、国民の幸福なんてものは二の次なのだし、国家経営もコスパでしか考えられなくなっているようにも思うんだけれど、どうだろう?
とにかく、ボクたちの将来ってのはそれほど明るくないってことだけは確かだ。
ボクの将来はさらに暗い。劇的な変化はないだろうし、変えるために努力なんてことをする気もない。
ただダラダラと一日を一年を過ごし消えてゆくことがやっぱり望みだったりする。みんなはなにか希望とか夢とかあって生きているのかなあ…。
きっぱりと過去を忘れて若葉かな(笠山)