春愁
嫌な嫌な春がやってきた。
真夜中の冷たさ、昼間の暖かさ。失語症の一日、ボクは誰とも話さずに、自由と言う監獄の中を歩き回っていた。どうせならほんとうに言葉を忘れてしまえばいいのに、そう呪いの言葉をボク自身にかけてみた。週末だというのに、この安アパート界隈はいつものように静まり返っている。時おり路地裏を通る車の音だけがこの世の鼓動だとしても、部屋に届いた時点で腐敗し、時の連続性を断ち切ってしまっている。そうこの部屋には過去しかない。キーンと耳鳴りがする。耳鳴りではなくて点灯管の連続音だと気付くのに半日かかった。その半日間というもの、ボクは耳鳴りが春のせいだと思っていた。少し不安になったのでKさんにメールを書いた。ほんとうはTやOに手紙を書きたかったのだけれど、便箋がないことに気づいてあきらめた。Kさんが「こっちに戻っておいで」なんて返事をくれるもんだから、なんだかぐったりとした。そんな行動力もなくしてしまっている。手紙ひとつ書けないでいるのだし。ボクのカラダも腐敗が始まっているに決まっている。メールの文字が外国語に見えてくる。「戻っておいで」なんてのはきっと「こんにちは」ぐらいの意味なのだ。それでも今のボクにはその「こんにちは」を言う相手もいなくて、こうしてまったくの一日を沈黙の中に過ごしているのだから、もう寡黙というよりも死人に近いのかもしれないと思ったりもしている。少しお酒を飲んで「あー、あー、マイクの試験中」なんて声を出してみた。そして少し安心した。「あー、あー、テスト、テスト」なんてもう一度声をだしてみた。また少し安心した。嫌な嫌な春がやってきた。それでも夏が来ても秋がきても、そしてまた冬が来ても、嫌な嫌なと言っているのだから、いったいいつがいいのか分からないのだ。とにかく嫌なのだろうと、こうして生きていること自体が嫌なのだろうと、思うのだ。
「あー、あー」
お天気がよすぎる独りぼっち (山頭火)