陸を敷いてはねむれない
「陸を敷いてはねむれない」というのは、山之口獏さんの詩「生活の柄」の一行である。布団ではなくて「陸(おか)」を敷いて、その上では眠れないというだ。少し前のエントリーに引いた「座蒲団」でも
どうぞおしきなさいとすすめられて
楽に坐ったさびしさよ
というところがあって、変わってゆく自らの生活に対して落ち着かない心の在りようや、そこにいることへの不安や不満あるいは自己嫌悪という複雑な心情が伝わってくる。
自分が求めていた世界、信念とか信条なんてこととは別のところにある、獏さんの現わす「柄」の外で生きているということへのジレンマ、そういう場所の「楽」を感じながら、心の底ではその「楽」から脱出したいという叫びが伝わってくる。そしてそれは故郷沖縄への望郷の念と重なってボクの心を切なくさせる。本当にさびしいのは、自分らしく生きられないということなのだ。捨て去らなければ生きられないということなのだ。
土の世界をはるかにみおろしているように
住み馴れぬ世界がさびしいよ
今の自分の場所は「住み馴れぬ世界」で、そこにいることが「さびしい」のだ。その場所の象徴が「蒲団」なのだ。そしてその反対、というか自分の場所「柄」が、「陸」であり「土の世界」なのだ。
2008年の秋、豊川の河川敷に数株の彼岸花があったのだけれど、どこにいったのだろうか。「あった」というのは、四国へ遍路へ行く前にはそこが散歩コースになっていて、その写真もあるのだけれど、今年久しぶりに行ったらなくなっていたのだ。
今年は一気に秋が来たもんだから、彼岸花もすぐに咲いてすぐに散ってしまったのだろうと思う。まだ球根は地下にあって生き延びているのだろうと思う。木犀の大木も柳生橋あたりの平屋の古い家にあったのだけれど、それも探せないでいる。
あれほどの大木なので今もあればすぐに見つけることができるのだろうけれど、きっと家を建て替えたりして邪魔になったもんだから切り倒されたのかもしれないと思っている。
永遠が将来にあると思っていた。でも、永遠は過去にあるようだ。ボクたちはそこにあったものを探し続けているのかもしれない。それにしても、あの彼岸花はどこにいったんだろう。そしてあの木犀はどこにいったんだろう。
ふりむけば木犀の香り夜の底(笠山)
向うの見えるのが豊橋