乗り鉄
「東大寺×2」がうまく書けなかったので、というか、勢いでそのままコトバを並べてしまったので、すこし「なんだかなあ」なんて思っている。
鉄道ファン、いわゆる鉄ちゃんではないのだけれど、電車に乗るのは好きだ。鉄ちゃんではないので電車の車種とか分からないし、路線名なんてものも分からなかったりする。ただ乗るのが好きなのだ。乗って何をするわけでもなくて、本を読んだり寝たり、たまに酒を飲んだり…ただそれだけのことなんだけれど、それが好きなのだ。
美味しいものを食べる、なんてことよりも、電車に乗るほうが楽しい。
東大寺に行ったことは前回書いたのだけれど、この時も前夜、夜中に中学生の頃描いたイラストを見て計画した。あの中学2年の修学旅行以来、奈良には何度も行ったのだけれど、東大寺には、というか修学旅行で行ったところには行くことが出来なかった。というか、本当は避けていたのかもしれない。無意識に。
「こんなんだったっけ」と思った。ボクの記憶には東大寺の駐車場のことしかなくて、これはいったいどうしたものかと思ってはいたのだけれど、行って確かめることが出来ないでいたのだ。きっとその頃の記憶を忌避し遺棄しようと思っていたからに違いない。そのほうが楽に生きられると身体がこれまた無意識に判断していたのだろう。条件反射なのだろう。
修学旅行の中学生もかなりいて、彼/彼女たちを見ていると懐かしかったのだけれど、ボクたちに重ねられはしなかった。というか、ほんとうに駐車場の記憶からあとはすっかり消えてしまっている。
「疲れた心にふとしのびよってくる思い出は、ときとして人にしめったうるおいをもたらしてくれるがそこには明日がない。しかし、あらゆる細胞で知覚されてしまった記憶は、意識下の経験としていったん潜在化し、ふたたび原身振りとなってつと覚醒されてくる」と森村大道氏が「犬の記憶」で現わした意味が少し理解できたようにも思う。
覚醒された思い出には、意識下の経験のみならず、プルーストの言う「無意志的記憶」も加わって、というか後者の方が圧倒的に量が多いのだろうが、そうして着色され、あるいは、脱色され、物語化されるにいたっては、記憶ではなくて、やはり物語なのだろう。
電車に乗ると、時間と空間のアンバランスな関係が、旅という想い出をギュッと濃縮してくれる。時間と距離もだけれど、手触り、というか、身体で感じるもの全てが、要するに非日常ということはそういうことなんだけれど、そこでボクたちは記憶の物語の奥行きを増してゆくのだろう。
というわけで、鉄ちゃんではないのだけれど、電車に乗るのは気持ち良い。書を持って電車に乗ろう、なのだ。
はじめまして。
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