月の兎

兎計りて まうすらく
猿は柴を かりてこよ
狐は之を 焼て給べ
言ふが如くに 為しければ
煙の中に 身を投げて
しらぬ翁に 与へけり

ボクたちは今も兎を火の中へ追いこんでいる。

この話を聞いた時に、ボクは、翁の罪について考えていた。翁が出現しなければ兎は死ななくてよかっただろうし、そもそも疑念とか猜疑なんて観念が生まれることなく仲良く暮らしていたに違いない、そう思った。

翁が出現しなければ…。

それは資本主義とか合理主義なんてものの出現と、ボクには重なって見える。それがボクたちの前に現れなければ、例えば過労死や過労自殺、あるいは格差や非正規なんてことが起きなかったのではないかと、思う。
……。

アルバイトのNくんはずいぶんとおっとりした性格だった。ボクの教え方が悪かったのかのかもしれないけれど、いつまでたっても指示を出さないと何もできない人だった。そして何度も何度も同じことを注意していたし、同僚からも言われていた。

半年ぐらい過ぎてからボクは「ああ、この人はこういう人なんだなあ」と思うようにした。そしてボクが彼の分まで動くようにして、彼には彼のできることだけをやってもらうようにした。それはとても単純なことだったのだけれど、そのほうがうまく機能したし、ボクたちの関係性もそのほうが良好に保てるように感じた。

ボクは、そのことについて随分と悩んだ。彼にとって、そしてボクたちの組織にとって良いことなのか悪いことなのか、ということについて悩んだのだ。Nくんはそれ以来楽しそうに仕事をするようになった。彼をあてにしなくなったボクたちも、それはそれで気持ちが楽になったように思った。

それは本当に良いことだったのか、あるいは悪いことだったのか、今もわからないでいる。人には向き不向きがある。だから早めに離職して彼に向いた職に就いたほうが良かったのかもしれない。多くの人はそう考えて、そして若い人はその通りに転職をする。いやその「向き不向き」なんてことを盾にして転職を繰り返す人もいる。

ただ、ボクは向き不向きよりは、職場環境こそが人を職人にすると思っている。労働者に忍耐を強いるよりは、使用者なり上司が我慢することのほうが大切だと考えている。人は人によって人になる。反対も然り。
……。

翁はどうして人を試すようなことをしたのだろうか。どうして猿と狐は庇ってあげられなかったのだろうか。どうして兎を兎として認めてあげられなかったのだろうか。そう思った。

ボクたちの心はもともと残酷なのだ。ただ理性がその残酷性までも抑止することができる。感情では嫌いな人も、理性で好きになれる。それが人間なのだ。その理性というものこそ、人間を人間たらしめるものなのだ。生まれも育ちも違うのだから、好きになることができる人のほうが少ないと思ったほうがいい。

だから人は人のままで良いのだ。そう思う。誰に言われようと、そのままで良いのだ。「変えろ」なんて言うヤツは疑ったほうがいい。そして変えようと思う自分も疑ったほうがいい。
……。

兎も、そのままで良かったのだ。何もせずに、ただぴょんぴょん跳ねていれば良かったのだ。そうすれば、哀しみというものも生まれなくて良かったのだ。

月を見ながら、ボーっとしているボクも、これで良いのだ。

月のうさぎ
さてと、これで一杯なのだ。それもそれで良いのだ。

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