十善戒(43日目の3)

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大師堂での納経が終わり宝杖堂や原爆の火に手を合わせてから納経所に向かった。

4人組の遍路が墨書朱印の順番を待っていた。その後ろに並んだ。大窪寺では四国遍路を打ち終えたという証明書「結願証明」を発行している。確か2000円だったと記憶している。賞状入れの筒も付いていた。ボクはそれを頼まなかった。それをどこに飾っとくのかということも考えし、証明書の意味がよく分からなかった。納経帳や御影札もあるのだから、なんて考えた。

大窪寺、四国遍路講の奉納札
(大窪寺、遍路講の奉納札)

というよりも、その待ち時間の長さにうんざりしていた。墨書朱印、判衣への御宝印、結願証明書、お土産、と四国八十八か所で最も忙しい納経所であるように感じた。4人がそれぞれ行う。長く感じたのだけれど、実際には20分いやもう少し短かったかもしれない。そのことに少し苛立っていた。「どんだけ買い物するんだよ」なんて思った。

それが結願した遍路の心の中だった。万感胸に迫るものがあり、感動に打ち震えるのではなくて、待っていることに苛立って拳が震えていたのだから、なまくら坊主ならぬなまくら遍路なのだ。そして「いったいその賞状をどこに飾るんだよ」と思った。

そうした時間と思いがボクを結願証明書否定派にしたのだろう。たったそれだけのことなのだ。人の精神状態は常に止まることがない。悟りなどほんの一握り、特殊な能力を持った人しか出来るわけがないのだ。だから人は巡り続ける。10回、20回、あるいは100回の錦の納め札の存在自体、人の無力さの証明なのだから。

空海の、あるいは四国の、そして宗教の存在はそこに寄り添っている。たかが四国を一周しただけで悟れるぐらいなら、坊主なんていらないのだから。

と、思っていた。
そしてそれで良いと思った。終わったわけではないのだから。

納経が終わり、境内の写真を撮らせていただいた。どんなに遠くても納経をすませてからまた本堂や大師堂に行って撮影するということは最後まで守った。そして合掌礼拝、開経褐、普禮真言、懺悔文、三帰、三竟、十善戒、發菩提心真言、三昧耶戒真言、般若心経、御本尊真言、光明真言、御宝号、回向文をどの札所でも読経できたのもボクにとっては自慢だった。ご詠歌を唱える人もいるのだけれど…。

そのことのほうが、ボクには感動的だった。というか、それぐらいしか出来なかったということなのだけれど。歩いて、唱えて、守って、野に寝る。

山門を出てお土産を少し買った。大窪寺名物葛湯を買った。そしてまた歩き始めた。国道377号線を歩いていた。その頃になって、「それだけのこと」の辛さを思い出していた。万感胸に迫るもの、それはやっぱり辛苦の日々だった。思い出して、「ちくしょ~」と叫んだ。そしたら涙が流れた。鼻水も流れて苦しくなった。それでも歩いた。「終わっても遍路、人生なお遍路」とつぶやいた。

大窪寺に並ぶ結願御礼の奉納石柱
(大窪寺に並ぶ結願御礼の奉納石柱)

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