四国一周の日(41日目の2)

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八十二番札所根来寺を11時20分に出発した。五色台みかん園まで打戻り、三叉路を左折、鬼無へ下っていった。急な下り坂が続く。「屋根のあるところで眠れる幸せ。水があることの幸せ。坂道をゆっくり歩けなくて笑った。」とその日の日記に書いているように、国分寺から一本松の登りと以上に急な坂だった。

根来寺から鬼無への下り道から見える国分、讃岐府中方面
(根来寺から鬼無への下り道から見える国分、讃岐府中方面)

高度を下げて、そして墓地を通り高松西高校が見える頃になると、平坦な道路になり、そして民家も増えてくる。自動販売機があると安心もする。そんな安心感からか、お腹が急に痛み出した。トイレに行きたくなった。そういえば4日間便秘だった。「便秘は便利だ」と前に書いた。ねぐらをトイレとセットで探さなくて良い。毎朝快便な人は、水よりもトイレの心配をするのだろう。健康なのだけれど、不便でもあるのだろう。

そのせいだろうか、とにかくお腹が痛くなった。歩きながら地図を見た。そして鬼無駅をめざした。県道33号線鬼無交差点を左折した。少し行くと駅があった。線路を跨ぎ歩道橋がある。それを渡り駅舎の横にあるトイレに駆け込んだ。12時35分

金剛杖を入り口に置く。(というのも、弘法大師の分身である金剛杖は不浄の場へは持って入らないとという作法があるからだ)そしてトイレのドアを開け入る。ザックを肩から下ろし、ドアに付いている荷物かけに掛ける。菅笠を脱ぐ。白衣も脱ぐ。それからベルトを緩め、ファスナー…。その一連の動作がとても長く感じた。青ざめていた、と思う。

少しトイレを汚してしまった。それほど緊急だったということなのだけれど。荷物をそのままにして、水筒として使っているペットボトルに手洗い場から水を入れてきた。そして掃除をした。何度か水を汲んできては流した。水洗便所ではなかったのだ。

人が来ないことだけを祈りながら、出たり入ったりを繰り返した。そして掃除が済むと駅を後にした。12時55分だった。

それから郵便局の前を通り、川を渡り民家を開放している休憩所の前を通った。通っただけで寄りはしなかった。少し前を夫婦だろうふたり連れの遍路が歩いていた。その距離を保ちながら香東川に着いた。前の人たちはそのまま橋を渡り、高松高専南の交差点で高松自動車道を抜けるルートを取った。へんろ道保存協会の地図で「乙ルート」とされているコースだった。一宮寺まで11.9キロメートル。

ボクは橋を渡らないで、そのまま川に沿って開発されている河川敷公園に下りていった。そして川に沿って歩いた。香東大橋で県道12号に出て、一宮寺へ向かうルートだった。これが「甲ルート」11.5キロメートル。甲乙、その差400メートルなのだけれど、その差の通り、ボクのほうが先に着いた。納経を終えたあたりで、前を行っていた夫婦遍路がやって来た。

そしてその甲コース、香東大橋の手前の河川敷を歩いている時に、前日高照院から白峰時ルートを進んでいった遍路を見た。彼とは一宮寺で少し話した。結局、坂出簡保保養センターに宿泊したそうなのだけれど、途中暗くなってしまって、弱っているところに簡保の車が来て拾ってもらったということだった。雨の日の山道、それも夜、心細かっただろうと思った。

その日は高松市内のビジネスホテルを予約しているということだった。15時前だったので、ちょうど良い時間でもあった。

14時30分、八十三番札所一宮寺に着いた。ちょうど小学校の下校時間と重なって、途中小学生と杖がぶつかったりした。小学生が杖を蹴るように足が当たったので、睨みつけてそして心の中で「クソガキ」と言った。終盤に来ても、そういう精神状態なのだから、いったい何をしているんだ、と少し後悔した。

15時出発。そこからのルートをどうしようかと迷っていた。高松、岡山からマリンライナーでやって来たので、実質、四国を一周したことになった。あの岡山駅のことを思い出していた。

一宮寺山門に貼られた千社札
(一宮寺山門の千社札)

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