仲村渠イズムとはなんだったのだろう
仲村渠氏の登場目的は「バッカス氏を人気者にすること」であり仲村渠イズムの提唱ではなかった、という仮説を立てて考察してみます。
その理由は、この数ヶ月Twitterのタクシー界隈を賑わせた仲村 渠氏について、いまだに消化できないままでいるからです。(この記事は7月2日に一度書いて下書きのまま放置していたものに、9月に訂正を加えました。非公開にしていましたが、2023年大晦日に公開しました。)
仲村渠イズムという戦略
- エンタメ性
- ルックス
- 発信力
- 博愛主義
以上4点が仲村渠氏が提唱した、バッカスイズムの理念です。ところが、どれも曖昧で、しかも具体性を欠きながら「バッカスが1番」と主張していました。
この曖昧さや表現方法が議論を呼び、物議を醸すことになります。
たとえば、
- タクシーとエンタメ性がどう関係するのか
- それはルッキズムになるのではないのか
- Twitterでの発信力と営業の相関性は
- 博愛主義とはどういうことか
このような疑問に対する回答がないまま、「バッカスを見習うべし」で終わらせていました。
その結果、
- タクシーの経験もないのに
- 女性経験もないくせに
という反論をされたのは、当然の帰結だと言えます。
回答されぬまま、「貴様」や「クズ」を使い攻撃性や排他性は常態化しました。そのことでさらに「タクシー経験もないのに」「女性経験もないくせに」と反論されるという負のスパイラルに陥りました。両者の確執は深まり、悪いことには反仲村渠のを増やしました。
ところが、これも戦略だったのです。仲村渠氏がヒール役に徹したということです。厳しさと優しさ、北風と南風、鞭と飴、そういった戦略を使った、ということです。そして、両者の差の拡大が最終的にバッカスイズムへの礼賛、バッカス氏への帰依に繋がることを計画していたのではないのでしょうか。
仲村渠イズムとは
仲村渠イズムの戦略をもう少し考えてみます。
博愛主義によるヒエラルキー構造
仲村渠氏は下図の構造を考えました。
つまり、バッカスイズムを頂点とするヒエラルキー構造です。バッカス氏を頂点にするためには、その頂点の集団に氏が所属する個人タクシーを置く必要がありました。そして、
- 高品質の個人タクシー
- 低品質の個人タクシー
- 高品質の法人タクシー
- 雇われのカス
という順位付けし、階層化する方策を取ったのです。
ファシズムの登場
それには「貴様」「雇われのカス」という表現は、階層を明確化し異論や反論を排除する方法として使われました。つまり、討論や議論の余地はない、ということサインです。繰り返すことにより、「洗脳」しようとしたのでしょう。1
まるで「フルメタルジャケット」「ジャーヘッド」「G.I.ジェーン」に見る海兵隊の訓練のような感触、それが仲村渠イズムというファシズムの正体でした。
バッカス氏への非難
そういった感触や構造が受け入れられるはずがありません。いくら戦争を知らない人たちであったとしても、その方法がうまくいくわけがないのです。そうして、引き入れようとした理解者たちも去っていきました。去る、というよりも、面倒くさくなったのかもしれません。
そもそもの話なんですが、この一連の物語は出来過ぎているのです。ある日突然現れたバッカスイズム提唱者の仲村渠氏が、批判され侮蔑されたことでタクシー会社に就職する。そして内勤として夜勤をしながら運行管理者資格を取得する。このプロットだけでも怪しいものでした。
王様と執事構造
初めから同一人物説を唱える人も多数いました。理由はこの登場から運行管理資格取得までの流れです。同一人物であるという疑義がある中、イズムを繰り返していました。これが戦略だと考えないと、なぜ仲村渠氏がバッカス氏に拘るのかを説明できません。
説明できないことと、分かりにくさが、さらに同一人物説を強めていったのです。二人は別人です。それは間違いないでしょう。としても、バッカスイズムというシステムの核は同じです。言い換えれば、王様と執事のような、あるいは、殿と爺の関係です。
そうなると非難の的は、システムに集中します。つまり、バッカス氏+仲村渠氏になるのは当然の結末ではないでしょうか。仲村渠氏だけが悪いのではない、システム自体に問題があるのだ。その正体はバッカス氏なのだ、と界隈の人たちは考え始めました。
バッカスイズムからの撤退
結局、仲村渠氏の偏愛がもたらした悲劇なのです。薄っすらとタクシー業界を改善しようとした形跡はあります。しかし、関係者でもない人が、避難され侮蔑されたからとタクシー会社に入社し運行管理者資格を取得する、そんな偶発的なことがあるのでしょうか。つまり初めから仕組まれていたのです。
そして失敗したのです。いえ、失敗も仕組みの中にあるのかもしれません。
仲村渠氏がバッカスイズムを称えれば称えるほど、ボクたちは胡散臭さを感じていたのです。そしてそれが同一人物説になり、怪しさになりました。さらに、計画的な仕組みを考えるようになったのです。
要するに、仲村渠イズムの正体である「バッカス氏を人気者にする」ための、王政が可視化されたのです。
仲村渠イズムの失敗
親が子の友達に「仲良くしてね」と言うことと似ています。結局、それが度を過ぎたことが失敗の原因です。そこで違う方法を模索していたのでしょう。バッカス氏と決裂したかのようにも見えました。いえ、実際、思うようにならないことへの苛立ちから、決裂したのでしょう。そうなったとしても、愛は消えた訳ではありませんでした。愛がゆえのことでした。
何がなんだか解らないままに、「また」姿を消しました。そしてバッカス氏も同時にいなくなりました。これがさらに同一人物説への疑いを深めています。さらに、仲村渠氏の突然の登場とバッカスイズムの提唱の目的は、この結末ではなかったのか、そう考えるようになりました。
つまり、バッカス氏への悪意ある罠だったのではないかと……。
仲村渠氏の登場登場目的は「バッカス氏を人気者にすることだった」と言うボクの考察です。
ついでに、一連の流れの中での「イジメはあったのか」について考えてみます。
イジメはあったのか
この一連の仲村渠イズム提唱の中では、仲村渠氏やバッカス氏へのイジメ問題が出てきます。
大勢でよってたかって、と言うことです。しかし、その大勢を作ったのは仲村渠氏本人です。バッカスイズムという構造を作り同調者を集めようとし失敗しただけなのです。意図的ではなかったとしてもです。
数ではなく何が正しいか
数の問題ではありません。仲村渠氏が間違っているからです。「貴様」や「カス」を使うことが正しいわけがありません。ネタでありキャラであるとしても、タクシー会社に就職し管理者になった時点で、その虚構性が消滅したのなら尚更にです。
たとえ、「キャラだ」「ネタだ」と解っていたとしても傷付く人がいます。そこを無視して「一致団結」なんて言うのは、正しくないのです。
何を言ったかではなく誰が言ったのか
これも同じなのです。仲村渠氏が言ったからではなく、仲村渠氏が何を言ったかを問題にしているのです。それを都合よく自分たちの意見が通らないと、被害妄想のように「オレが言うと」になっていました。
いえ、SNSという言論の自由で成立している場所で、誰が言ったか、なんてことはどうでも良い話なんです。誰でも言える場所なのです。
匿名性の否定はSNSの否定
実名や実存を強く意識していたことは「個人タクシー」に拘っていたことからも理解できます。しかし、その拘りが、仲村渠氏に実存の人格を与えてしまったことで、被害が拡大したとも言えます。そして結果的に、仲村渠氏が怖がっていた顔なき声を呼び寄せました。匿名の人たちは「反仲村渠イズム」の人たちでした。なぜなら、匿名性を否定しているからです。
仲村渠イズムとは
大勢から反論されると「イジメ」になるのではありません。大勢のほうが正しい場合もあるのです。そして、本名で投稿することは偉くも正義でもありません。なぜなら、それがSNSだからです。そして匿名性が事実を伝えることがあるからです。さらに、匿名性が言論をさらに自由にするからです。
本名や実在性、そこに拘る必要はないと思います。つまり、誰が言ったか、ではなく、何を言ったかなのです。本名だから正しい、のではなく、正しいことを言うから正しいのです。
個人タクシーの人たちに拘ったのは、仲村渠さんの方だったのです。匿名や虚構性を避けた理由もそこだったのです。しかし、ついには、恐れたことが起きただけのことなのです。そうですよね、仲村渠さん。
そして仲村渠さんが提唱した仲村渠イズムは、とうとう分からずじまいでした。虎の威を借る狐のごとく、パッと消えることも想定内でしが……。

