補陀洛、大龍寺にて(7日目の3)

補陀洛とは「《(梵)Potalakaの音写。光明山・海島山・小花樹山と訳す》仏語。インド南端の海岸にあり、観音が住むという八角形の山。日本でも観音の霊地にはこの名が多い。補陀落山(ふだらくせん)」。

その桃源郷を目指して、旅に出るという宗教的な行いもあったそうだ。多くは海の藻屑となり、生きて戻ったとしても死が待っていた

補陀洛渡海(ふだらくとかい)

人は旅をする。
永遠に。
行き着くところは桃源郷、あるいは地獄。

補陀洛への道案内

補陀洛にて

大龍寺に着いたのは11時少し過ぎた頃だった。山の反対側には大龍寺ロープウェイが、高低差400メートル強、距離3000メートル弱を運行している。参拝者の多くはそのロープウェイを利用して標高500メートルの大龍寺を訪れる。それは急峻な山ということを物語っている。

おじさんがいた。ちょうど大師堂で納経をしていた。そのあとボクが納経所から出てきた時もおじさんはまだベンチに座っていた。ちょうど昼食時だったので、パンを食べていた。ボクはその隣に腰を下ろした。そして「今日はどこまで行きますか?」と尋ねた。「平等寺まで行って、それから考えるか」と答えてくれた。

しばらくしておじさんは、出発する仕度をした。「そしてどっちかね」とボクに聞いてきた。平等寺へのへんろ道は山門を出て少し打ち戻る車道を通るコースと、山に向かって行くふだらく峠越えとがあった。「どっちなんですかねえ」とボクが言うと、おじさんは納経所に聞きに行った。そして「山門を戻るんだそうだ」と、車道のコースを教えてもらったことをボクに話した。そして出発した。

ボクは昼食におにぎり2個とスニッカーズを食べていた。

「あの方向は車道コースですよね」と隣のベンチに座っていたおじさんが声をかけてきた。茨城のKさんとの出会いだった。「そうなんですか」とボクは地図をサイドポケットから引っ張り出して見た。あとで分かったことなんだけれど、ふだらく越えは迷いやすいので、大龍寺としては車道を通るコースを勧めているそうだ。

Kさんも昼食のおにぎりを食べていた。昨夜泊まった民宿で作ってもらったものだ、とKさんは言った。そして宿に泊まりながら歩いているということを話してくれた。まだ少し休憩する様子だったKさんに「じゃあ、お先に失礼します」と言って、ボクはふだらく峠を目指した。確かに踏み後はしっかりと付いているけれど、それがいくつにも分かれていたので、迷いやすいな、と思った。そして思った通りの急坂だった。金剛杖で身体を止めなければならなかった。なんどか転びそうになった。

それでも身体は落ちて行く。

そういう感じで山を下りて行った。まだボクの身体、特に膝にも痛みはなかった。筋肉痛は全身にあったとしても、それは少しだけ心地よさも伴っていた。痛みは時として快楽を内包して存在する。あるいは痛みは快楽に変換される。脳内でドーパミンが分泌される。そのことを身体は知っている。無意識下において。

持福院で休憩した。荷物を肩から降ろし、道端に座った。そして靴を脱いだ。しばらくするとKさんもやって来た。また少し話した。出身地のことや、ボクが失業者であることなんかを言った。Kさんの方が先に出発した。「止まっていると動きたくなくなりますからね」と言った。そうボクも思っていた。少ししてボクも歩き始めた。

国道195号線に出た。久しぶりの文明、なんてことを感じた。朝からまだ6時間ほどしか過ぎていなかった。身体が少し楽になると、思索が始まる。痛み…ボクは癌で亡くなったユリさんのことを考えていた。二ヶ月後に死ぬと宣告されたら、いったい何をするのだろうと。そしてその痛みに耐えることが、ボクには出来るのだろうか、と。

太龍寺の種火
(太龍寺の種火)

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