さらば愛しき大地 ~さよならSくん~

白南風が田原の街に吹き始めました。少し海の香りがします。それはやはり海独自の香りではなくて、何かが混ざり合ったものです。今日も暑い一日でした。炎天下、その言葉通りの天気。バスを待つ間中、汗が身体いたるところから流れ落ちていました。虫が這っているような感じでした。バスを降りると、ボクは床屋へと向かいました。どうも髪の毛の長さが気になってしかたありませんでした。その虫たちの巣が髪の中にあるような感じがしていました。

床屋で十分な長さを切ってしまうと、ボクは少し心の安定を取り戻しました。もう、汗の流れる嫌な感じはしませんでした。

滝頭寮からの田原市内
滝頭寮からの田原市内

ボクは、何度も通ったことのある道を、滝頭へと向いました。14日に満了したSくんに会いに行ったのです。

今日のはなとき通りは夜市があるために、いつもより賑わっていました。ボクはこの道を通ったことを少し後悔しました。急ぎ足でその通りを抜けました。滝頭へのダラダラ坂を歩いていると、蔵王山に登った日や、田原アルプスを縦走した日のことを思い出しました。あの日も同じ道を通りましたから。

そして、Sくんの少しうつむきがちで話す仕草なんかを思い出していました。彼の身の上に起こった不運な出来事を思うと、この坂道は誰よりもSくんにとっては辛いものだったのかもしれないと、思いました。

風景というのは、時として、人に苛立ちを覚えさせるのではないかと思いました。人の気持や、その人の身の上に起こった出来事に関わりなくそこに存在する。無思慮に。圧倒的に。
ただ、人のように攻撃はしてこないのだけれど。

Sくんは部屋にいて、もう片付けてしまった荷物を見ていました。なぜだかポツンと壁時計があって、それが安いものではなかったので、狭い部屋には不釣合いのように思いました。長い長い独りの時間を、時計だけが知っているように思いました。

そして、その時計も風景と同じように無思慮に圧倒的に、時を刻んだのでしょう。

「これからどうするの?」と聞くと「また来るかもしれません」と。その時ボクは思ったのですが、少しずつ少しずつ「運」というものが、Sくんについているのだろうと。

ボクたちは寮の食堂で夕ご飯を食べて別れました。また会う約束をして、少し暗くなりかけた田原の街を見ながら、ボクは田原駅に向かいました。

悪月

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