せつない気持ち

やっぱり眠れない夜を送りました。どうにかなっちゃったのかなあ、なんておもっているんだけれど。たっぷりと時間はあるのだけれど、年賀状の返事は書けないままになっています。プリンターも1年間使ってなかったので不機嫌だしね。年賀状のかわりに、メールを出してもMAILER-DAEMONから「がんばったけれど、送れなかったよ」って送り返されるものもあって。

せつない話。
悲しいでもなく、寂しいでもなく、辛いでもなく、哀愁や暗愁でもなく、侘しいとかうらぶれるというのでもなく、心細いとかやるせないでもなく、やりきれないとも少し違っていて、まして断腸の思いなんて大げさなものでもない、そんな感情を表現する言葉とは微妙に違っている心のうごき。せつない。
山田詠美さんは「五粒の涙」の中で
「悲しいのだけれど、悲しいと呼ぶ程でもない、苦しいのだけれど、それを口に出す程でもない。せつない感情は、涙腺を刺激しながらも五粒以上の涙で解決することの出来ない複雑なものである。」
そして
「『せつない』という気持ちに限っては、心の成長が必要だからである。つまり、それは、大人の味わう感情なのである。」「大人だから我慢もする。そして、こらえ切れなくなった涙は、たった五粒だけに凝縮されている。そして、それは、とても濃度の濃いものであり、宝石のように澄んだものである。心の成長に比例して純度を増すもの、それが、せつない時の涙である。」
と説明しています。とても秀逸な解説ですよね。この文だけ読んでも泣きそうになりますよね。
ボクたちは、「大人だから我慢も」するんだけれど、それでも我慢できない感情ってのがあって、それを「こらえ切れなくなった」ときに、悲しいとか寂しいとかとは違った、やり場のない思い、簡単には話せない気持ちになってしまう。それでも最後は、こらえてしまうのですが、そのように心をコントロールできるようになった時、山田詠美さんの言う「心の成長」した時に、せつないさを感じるものなのでしょうね。
目の前の大好きなケーキを食べたいのだけれど、太るといけないから我慢する。そしてもう「食べたい」という気持ちさえも忘れようとする。いやケーキそのものを忘れようとする。そんな時の気持ちなのかもしれませんね。
例が悪いですね。
ケーキを食べると自分も辛くなるし、ましてケーキは消えてしまう。我慢していれば、ケーキはいつまでもそこにあって、ボクとケーキは常に「食べたい」という感情を持続できるんだけれど…。半分食べて、半分残すなんてことも考えられるけれど、それは食べるほうの一方的な欲求を満たすだけのもので、そしてケーキは前の姿をなくすわけで。
だから、やはり我慢して、ケーキをそのままの姿で残すことが、ケーキのためだと思う時の気持ちが、せつなさなのかもしれないですね。
やはり例が悪いですね。
というか、悪いと言うかみょうに生々しい感じもしてます。カニバリズムを想起しますよね。う~ん、なんて言えばいいものやら…。
ボクの拙い解説ではなくて、山田詠美さんの「五粒の涙」や「心の鍵穴」を読んでいただくと「そういうことか」とお分かりになると思っています。
いえ、もっと良い方法があります。それは恋をすることです。その恋の過程の中にこそ、せつない気持ちというのがあると思うからです。
え?お前はケーキに恋しているんだね?って?
ま、そういうことです:)

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