祥月命日
19年とか20年前の思い出なんてね、そんなに古くもなくて、色褪せたとかセピア色の記憶なんてことでもなくて、かなり鮮明に憶えているもんですよ。
死者を送るとか、祥月命日とか、死者がどこかに行って、そしてどこかで今も生きているような、そんな死に対しての観念なんてのは、永遠というもの、死とは逆のものを考えさせますよね。
滝頭公園の紫陽花。ササユリはまだ蕾でした。そういえば「小百合」とか「百合子」なんて名前はもうあまりつけないのですかね?紫陽花の花は好きですか?
死への恐怖や悲しみが生物を進化させたということなのでしょうね。(そういった感じの話を聞いたことがあります)人類の誕生や進化には永遠ということは不都合であったし、短いスパンでの個体の更新が繰り返されて高いレベルの生命体が存在するようになったということなのです。(死への恐怖や悲しみというよりも、種の保存という本能なのでしょうが)
それは生物としての、細胞単位のことだけではなくて、思想や行動に直接繋がっているのだろうと思います(というか、死というものを前提に人間生活は営まれているのでしょうが)。哲学や宗教や医学…戦争にしてもそうだろうと思います。
母親の悲しみは、もっと違う感覚…というか、感触と言ったほうがいいのかもしれないですね。それはボクたち男(というか雄)が感じられないものなんだけれど、きっと重量という質感を持った感覚(それが感触ということなんでしょうが)なのだろうと考えているのです。10ヵ月もの間、胎内にいたのですから、その期間の出来事(知覚できること)や、会話(それは胎児との交信)なんてものが、重さや痛みと共に思い出として残っているのでしょうから、悲しみというにはあまりにも軽すぎる心の痛手、深重な心の闇、発狂しそうな苦しみ……、言葉には出来ない思いなのだろうと、考えています。
永遠とは、思い出のことで、19年たとうが20年過ぎようが変わらない/変わりようのない写真の中の笑顔なんだろうと、考えているし、悲しみっていうのは、何を表現するかではなくて、きっと、その笑顔をたまにでも思い出すことかもなあ、なんて思っているんです。