休戚

悲しみが多くなって
悲しみを数える日も多くなって
夢を見ては
涙で目がさめる朝もある
あのころは楽しかったのかなあ
その「あのころ」の10年ほど前の夏なんかのこと
万日山のふもとの狭い狭い家に住んでいて
捨ててきたものと
それと引換えた少し窮屈な日々には
まだ夢みたいなものがあって
今ほど自由な時間なんかなくて
今ほど人らしく生きてもいなかったのだけれど
それでも夢の中で泣いて
息苦しさに目をさますなんてことはなかった
その夢とか明日なんてものの
輪郭なんてのも見えなかったのだけれど
漠々と生きていても
悲しみは父の死だったり
知人の死だったりで
ボク以外のことだったのだけれど
そしてそれは時間が少し過ぎれば
癒えてしまう程の悲しみだったのだけれど
こうして数えている悲しみってのは
どうも時間とともに多くなっていて
そしてその悲しみを数える日も多くなっている
万日山の家ももう今はなくなって
開発のためにぺしゃんこになった
花屋とか酒屋とかもなくなってしまっていて
そこに住んでいた人びとも
散り散りになって
もう取り返しのつかない場所になっている
袋小路になったところにあった狭い狭い家の思い出も
もう取り返しのつかないことになっていて
思い出は全部悲しみになってしまう

2件のコメント

  • blank

    こんにちは。
    そうかもしれないですね。
    えっと、ま、太平寺もそうなのですが、昔行ったことのある場所に、とてつもなく行きたくなる時ってあって、例えば旅で一度だけ訪ねたことのある街とか。
    でも、その場所がなくなってしまっていては、どうすることも出来なくて。
    それは、場所に限らず、人の場合もあるでしょうし。
    ありがとうございます。

  • blank

    もう取り返しのつかないことは
    山ほどあるのだけれど、
    だけど散り散りになった人達は
    きっと違う場所で幸せに暮らしていて、
    管理人さんの悲しい思い出は、
    本当は幸せの一部であるかもしれないと
    ボクは思うのです。
    元気を出してください。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA