色気の雨

雨音で目がさめる朝。これが平日だとしたら、それでも強引に眠ろうとするのだろうけれど、何の予定もない日曜日の朝は、1日の始まりが4時だろうが5時だろうが、たいして問題でもないように思う。「篤姫」まで起きていられるかが問題なだけだけれど…。
「この秋の雨はなんとも色気があるね?」
なんてメールを頂く。
少し想像してみる。
その人が見ているだろう風景とか、感じているだろう感覚とか、まで立ち入らないと理解できないレベルってものがあって、その「色気の雨」も、例えば雨の量(雨粒の大きさとかも)、気温、地上なのか階上なのか、色とか(雨でも晴れていたり薄曇りだったり暗かったりするしね)香りとか、雨と反対側の(部屋の中だったり車の中だったり)様子だとかがあると思う。
それに感情が重なり合うと、たぶん、同じ雨でも見え方、感じ方は全く違うものになるのだろうしね。
それが言葉として生まれるかどうかは、また別問題で、泣いたり笑ったり叫んだり怒ったり、という感情というものが生まれる、その瞬間を大事にするかどうか……そこが情緒の問題だったりするのだろうけれど。
ま、そこまで書かなくても、ほとんどんの人は「ああ、それが価値観の多様性ですね」なんて思うのだろうけれど。また表現力なんてのは、(全てはそうではないとしても)言語力とバランスをとり合うのだろうから、そのあたりはやっぱり個人差はあると思う。
ボクが強くそんなことを思うのは、えっと、ま、ボクの感覚に少しだけ異常があるということで、たまに「ええ」と驚かれることがあって、その時に「人との違い」を、これまた「ええっ」って感じることがあるからなのだけれど。
やっぱり人の感じ方は違う(違い過ぎる)のだろうね。
ただ、ま、例えば雨との距離感、なんてことは、意識しないと感じられないものだろうし、例えば、その雨に打たれると「色気」よりは「寒気」になってしまったりするのだろうしね、ま、それでもマトワリつくような雨に「色気」よりも「艶気」を感じたりもする人もいるのだろうけれど…。
そう言えば、写真家梅佳代さんの言葉。
「被写体と自分との距離感が大切だから。ズームレンズはずるい感じがする」なんてことも、そんな感じなんだろうね。特に望遠側だとその感じが強くするのかもしれないと思っている。
例えば人物にしても動物や風景にしても、望遠で撮るとどこかテレビの中という感じもするし、体温とか呼吸とか匂いとかなんて感覚からも遠ざかっているので、形と形じゃないものとが別々に存在しているようになるのかもしれないと、思ったりもする。
というか、35mmとか50mmの単焦点レンズで人の写真を写そうと思うと、握手出来る程度に近づかないといけないので、挨拶から始まって、そんで「ちょっと立ち止まってもらえますか」なんて命令までしてしまうのだから、そうなると、信頼関係も一瞬のうちに築かなければならないだろうし、かなり面倒なことになってしまう。だけれど、それが、その距離が、大切なことなのだろうと、思った。
写真だけではなくて、世の中にはずいぶんその「ずるい感じ」がするものが多いように思う。その「ずるさ」は「便利さ」というボクたちが追及してきた文明の基本概念と同義語なのだから、文明を手に入れた代わりに、なにを失くしたかと言うと、やっぱりそう言った感覚なのだろうと、思うのだけれどね。
えっと、ま、今さらって話なんだけれどさ。

メザシはフライパンで炒ってから七味(一味でも)をかけて食べるのが美味しいかもね。そうすると頭の部分も焦げないし…。

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