ホテル・ルワンダ とか
ポール・ルセサバギナは、こう言った。
「いえ感謝します。あの映像(ルワンダ内戦による100万人とも言われる虐殺の一部を写したもの)を流せば、世界が私たちを助けてくれる」
カメラマン「もし誰も助けに来なかったら?」
ポール・ルセサバギナ「あの残虐行為を見れば必ず助けに来るだろう」
カメラマン「世界の人々は、あの映像を見て“怖いね”というだけで、ディナーを続けるだろう」
ボクたちは知っている。ルワンダでも、そしてダルフールでもジェノサイドがおこなわれていることを。広島・長崎でも、ナチスドイツでのホロコーストも、皆殺しが行われて、もうそれは歴史の溝に埋もれてしまったことのように考えているふしがあるのだけれど、今もどこかで同じことが繰り返されている。そして優劣は繰り返し説かれる。
優劣。
例えばパワーゲームという資本主義における戦争では、金を儲ける人が優秀な民となるのだろう。例えばそれは無目的に何の倫理観も道徳も持ち得ないまま「金を儲けることがそんなにいけないことなのか」と優秀さを披歴する、まるでタガーナイフの殺傷能力の高さを自慢するように…。殺すことが全てなのだよ。皆殺し、そして残るのは優秀とされる側の人たち。
ボクたちは知っている。IDカードは能力主義や成果主義というイデオロギーの元に16歳や18歳の時に、またしてもその優劣を刻印されたもので、以降それは永遠につきまとうものだとういうことを。あのルワンダの「Tutsi」というスタンプほどの重量感で、時に「絶望」という深淵とリンクする。
ボクたちは知っている。「生」とは「欲望」をいかに解決するかという蠢きだということも。つまりはすべてのものは、評価を与えられた時に、存在することを許されるのだから。
食べるために寝るために消費するために獲得するために生きるために働くために……そのために生きるために食べるために寝るために笑うために幸せになるために喜ぶために生きるために寿限無寿限無…。
そのために隣人を殺すことだってデキル。
そしてその現場の目撃者となっても、いつもの風景の中でいつもの生の儀式は執り行われる…。「ディナーを続ける」のだよ。
人は墓場だろうが戦場だろうがトイレだろうが、いや火葬場の炎で昨日まで飼っていた羊を焼いて食べることもデキル。どれほどの残忍さの目撃者となっても、その痕跡が眼球に残ったとしても、己の痛みにさえならなければ、「ディナーは続ける」ことができるのだよ。
……。
「ゴキブリを殺せ」
この国でもとても良く似たフレーズを聞く。
「負け犬」「負け組」
映画を見て泣いた人も多いのだろうね。
でもね、自分の足元を良く見てみるんだよ。
「哀しいね」なんて言いながら、誰かを踏みつけてはいないかということを。
そしてすでにパトリオティズムなんてものはなくなっていて、隣の負け組を、あるいは逆に勝ち組を虐殺することなんてのは、朝飯前なのかもしれないのだから…。
「ホテル・ジャパン」なのだよ。すでに。もう。
この映画は観ました
現実のルワンダは悲惨でとても映画では公開できないでしょう
カンボジア大虐殺のキリング・フィールドもしかりです
人間という動物は残虐です
歴史は繰り返します
今も国民を統制し残虐な行為をしている国がすぐそこに
話は変わりますが
オスというのは悲しい性ですね。。。
考え中さんへ
ま、この映画の中で何度も言われる「ゴキブリを殺せ」というフレーズがキーなのかもしれなませんね。
女性が強いのは、なにも人間だけではなくて、ほとんどの生命体でそうなのではないのですか。
男たち、というよりも、「オスたち」ってのは、そういう愚かな弱さを持っているのでしょうね。それがオスのオスらしいところなんでしょうね。
ダーウィンの進化論にまで、発展しそうですね。
本当に弱肉強食なのか?、強いってどういう事?なぁ~んて。
何時の時代も本当に強いのは女性ですよね、生物学的にも。
ロストジェネレーションにも男女両方居るのに、
他の世代に責任転嫁して声高に叫ぶのは野郎が多い気がする。
うつ病も無差別殺人も、殆ど女性の話しは聞かないですし。
自転車3人乗りの件の様に、法律改正がなんぼのもんじゃい
やれるもんならやってみろってのを、男も身に着けないとね。
生命を自ら生み出せる女性は、生命を奪って調理し食べる事
にも躊躇は無い、両方を当たり前にこなしてしまう。
それに比べると戦争を先導する男達は、恐怖に怯え、煽り、
支配されて滅びていく愚かな弱い生物なのさっ。