日食を見ながら政治のことなんかを考えてみた

卑弥呼は日食が原因で247年に殺された、という説がある。その女帝の死後、男子の王が即位したのだけれど、内乱が起こりそして女帝壹与が即位した。その278年も日食だった、と言われている。
以下、物語として書く。
古代から国の方向はシャーマンが決めていた。政治と宗教が一体化していたシャーマニズム国家がほとんどであった。現在でもその方法によって治めている部族も多いし、先進国においても密かに、あるいは公然と宗教に拠る国もある。宗教団体が政党を結成していて、その政党が保守党であるというわが国の政治も、全く宗教と分離していると言えないだろうし、主義主張、イデオロギーというものは哲学、思想、宗教というものから導き出されたイデアなのだろうから、神仏を使うことに異議も違和感もないように感じる。生活は一種の宗教行為に則っているのだから。
政治は宗教であった。神託によって決断されてきた。なぜそうなったのか、というと、それは政治とは未来のことだからだ。過去のことを反省することでもなければ、現在を嘆くことでもない。明日のことを考えるのが為政ということなのだ。そのためには神託によって決断をしなければならなかった。いや信憑性を付与するために神託ということにしたのだろう。
その神の言葉は何を語ったか。やはり未来のことだった。契約と言ったりする。契約とは過去や現在のことではない。常に人と神、あるいは人と人と神の間には未来の契約が存在した。人と人との契約を実行するためにいろいろなものが創造された。多くはやはり未来に対しての裏切りを防ぐためにだ。契約を破れば楽園を追われる。不幸が訪れる。裁きを受ける。人は未来的な動物なのだ。彼岸こそ、あるいは天国こそ、人の目的地なのだから。
未来を語ることが政治だとしたら、祈祷師や占師こそが政治家に相応しい。実際にマニフェストなどという神託を民衆の前で語る。出来る出来ないということは別問題で、それがその政党の未来予想図なのだ。未来を語ることに慣れていないこの国では、過去の実績や現在の地位がこれまではもてはやされてきた。マニフェストという概念の導入が遅れてきた悲劇だと言ってもいいだろうし、政治とは現世利益だとする即身成仏的な、小乗仏教的な意識が強い国民だったからだ。
政治家もハッキリと未来を見せてくれない。あるいはその能力がないのだろう。官僚なみの知識は持っていたとしても、家畜並みの臆病さも併せ持っていて、過去と現在のことを話すのが精一杯のようだ。政治家にリーダーシップを求める人がいる。それで良いと思う。ところがそのリーダーシップが何か分からなかったりする。それもやっぱり未来に引っ張ってくれる強い指導力なのだ。要するに未来なのだ。
そのビジョンがハッキリしない。見える化できてないからオレたちは絶望する。3万人が自殺する。
政治が悪いと言っているのではない。選挙とは未来を決めることだといっているのだ。それは未来を語れる人を選ぶことでもある。出来るのかよ、というぐらいでちょうど良いと思う。出来ることをすることぐらいなら官僚だけで良いのだから。いや官僚だけのほうが良い。
政治家に必要なのはそういうことなのだ。頭が良いとか話がうまいとか、そんなことよりも、気持ち良い話をしてくれるという理由のほうが正解のように思う。オレが幸福実現党に一票入れようと思っている理由もそこだ。聞いていて気持ち良い。出来る出来ないは二の次なのだ。
日食の年は何かが変わる。そして変わることを期待している。経済も、雇用も、そしてオレ自信もどん底なのだから。
日食(2)

2件のコメント

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    5314さん、こんにちは。
    人間的にも
    かな。
    ま、全てということで、気力さえない状態です。不登校というか、社会に出て行けないというか、引きこもりというか、若くないから困ったもんで…。
    誰だろ?

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    どん底
    精神的なのか
    金銭的なのか
    両方なのか
    あの人達の末路をみてみたい。

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