期間工物語(4)

月曜日の「裸踊り」、そして火曜日の「肩叩き」を無事に過ごすと火曜日の夜には田原工場への配属者が決まる。掲示板に貼りだされる。(最近では水曜日発表、木曜日移動になったみたいだけれど)田原工場配属が嫌がられる理由のひとつはその早さにある。他の工場の人たちにとって火曜日は「健康診断も終わったり飲みに行くか」あるいは「ちょっと散歩でも」なんてひと息もふた息も付く夜なのだ。
対照的に田原工場に決まった人たちは荷物の整理をする。手荷物以外の荷物は別便で翌朝配送するのでパッキングをしなおさなければならない。そして緊張する。
ボクはその田原組には入らなかった。そしてやはり刑の執行が延期されたことへの安堵感から少しダラリとなっていた。出勤準備をした朝が休みだった、というような感じの時間だった。同室の神奈川からの男性も田原組に入っていなかったことを「良かったですね」と言った。延期されただけで、かならずどこかに配属されるのだけれど…。
次の日の夜には全ての配属先が決まった。そして寮も決定した。ボクの名前に横には高岡工場、そして田中和風寮と書かれていた。行き先が決定したと言うことで、心臓がビクピク不自然に動いていた。煙草を吸いたいと思った。もうその時は禁煙して3年経っていたのだけれど。
田中和風寮に入寮する人を除いて全ての人が受け入れ寮からいなくなった。ボクたちは金曜日に工場に出勤して、そしてその後に寮に入るということになっていた。一番最後まで居ることが出来るということが少しうれしくもあった。その時はまだ田中和風寮がどんなものか知らなかったのだけれど。
その金曜日の夕方、ボクたち20人ほどは田中和風寮の食堂に集合した。あの頃は食堂も閉鎖されていて、受け入れの説明会の時と、年に2、3度ある寮生会主催のパーティにしか使われていなかった。
その説明が終わると、ボクたちは部屋へ散らばって行った。ボクの部屋は10階だった。そしてA室だった。廊下側の部屋、高さ40センチほどの窓しか開かない昼間でも薄暗い部屋、そして夜は人の足音がすぐそこに聞こえる、あの田中和風寮でも最悪と言われた部屋だった。ボクはそれでも、不満も不平もなかった。「半年間だけ」あるいは「遊びに来たのではないのだから」ということを呪文として唱えていたとしてもだ。
B室もC室も人はいた。誰も出てくる気配はしなかった。テレビの音だけが静かに流れていた。ちょうどニュースの時間だったのだろう、人の声が左右ばらばらに聞こえていた。ふすまを通して玄関の6畳ほどの部屋に届くその音は、つかめそうなほどの湿り気を帯びてこもっていた。そして足元を流れていた。読経のようでもあった。
ボクはそのふすまの扉をノックした。「ボツッ、ボツッ」と鳴った。そして中から声が聞こえてふすまがあいた。「今日から入ることになった田原です。よろしくお願いします」とMさんに言った。Mさんも「あ、よろしくお願いします」と言った。それから回れ右をして、Mさんのドアと同じ柱で蝶番によって張り付いているふすまを「ボツッ、ボツッ」と叩いた。
予め用意していたように登場したのがTさんだった。もうボクの音は聞こえているはずだった。その割には驚いたような表情を浮かべて「こ、こ、こんにちは」と少し吃音ぎみに挨拶を返してくれた。それ以上の会話はなかった。というよりも、楽しそうに話すことはその場に相応しくないように感じた。テレビから流れる音以外は許されないような、神聖さを感じた。足元に「ウ~」という低いうめき声が絶えず入り口に向かって流れていた。
ボクは自分の部屋に入った。そしてテレビのスイッチを入れた。Mさんの部屋と同じ音のするチャンネルに合わせた。そして牢獄のような窓を眺めた。高さ40センチ幅90センチが開放される空間だった。そしてそこが唯一の通路だった。ボクと外を繋ぐという意味でなんだけれど…。
夏の夕暮れに路地で見た花

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