秋思

9月の風が吹いている。
確かに気温は高いのだけれど、空気は乾いていて秋の匂いがする。夕暮れになると秋のことが繰り返し繰り返し去来する。気持ちはたっぷりと秋の中にある。
「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(藤原敏行)
そう言えば2年前の9月、リーマン・ブラザーズが破綻した。そして世界的な金融危機が起こった。それまでの好況が一転し、なんだか分からない空洞の中にこの国の多くの人たちが吸い込まれてしまった。
そのニュースをボクは、ちょうど名古屋で知ることになった。号外が配られていた。それほどの重大事ではあったのだけれど、ほとんどの人は起こるであろう悲しみの日々とは無関係な時間を過ごしていた。悲劇のプロローグなんてのはそんなものなのだろう。無関係な時間は徐々に侵食されていったのだし、それはとてもドラマティックに進んでいった。
もう2年も過ぎた。ボクはあの後旅に出た。いつものバックパックにシュラフやらテントを詰めて電車に乗った。何かを変えてくれる、なんてことを旅に期待してはいなかったし、経験というものがそれほど処世に有効だと、宗教的に盲信できるほど無垢でもなかった。出会いなんてのも窮屈に感じていた。いつものようにひとりで旅に出た。
果たして、旅は何も変えてはくれなかった。状況は少しずつ悪くなっていた。毎日ハローワークに通う日々が続いた。というよりもハローワークに行くことが仕事になっていった。多くの失業者で賑わっていた。その賑わいは何かお祭りのようでもあったし、その中にいると安心もした。何かがあるわけではなかったのだけれど、ボクたち失業者にとってそこだけが場所のように感じていた。
それでもまだボクたちには夢とか希望があった。不況がここまで長引いて、首相が「一に雇用、二に雇用、三に雇用」なんてことを言う日が来るなんて思わなかったし、まだ少しは求人もあった。
秋が深まって冬になると、リーマンショックの揺れがボクたちを社会という甲板から振り落とすようになった。街にはホームレスが増えて、強盗なんて事件も増えた。派遣村なんてものを開設されたのだけれど、それも根本的な治療薬にはならなかった。未だに多くは失業状態にあったり、あるいは就労したのだけれど再度失業したという人もいる。
転職するということはかなりのエネルギーを消耗する。その消耗率は年齢に比例すると思う。仕事ならなんでも、なんてことにはならない。そうして選んだとしてもまた離職する。
何にそういったエネルギーが必要かと言うと、やはり人間関係なのだ。肉体的な疲労は休日が癒してくれる。でも心の疲労を癒すのは難しい。不況という閉塞感や絶望感みたいなものが、人々の余裕を奪っている。だから、人間関係もうまくいかない場合も多いのかもしれない。
工場勤務だった人たちは、元々そういった人との関係が苦手だったりしたのだろうからなお更なのだろうと思う。ボクもそうなんだけれど…。
転校した学校で授業中は平気なんだけれど休み時間が苦痛なように、黙々と仕事をするほうが良かったりもする。ちょうどライン作業のように。多くの派遣社員や期間工がやってきたあの作業のような。
……。
また秋が来た。ボクはタクシードライバーになっているけれど…。
無花果
今年は無花果をよく食べたよ

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA