地域ブログ論

いや、そうたいしたことではないのだけれど…。
情報源としてブログを利用したりする。豊橋市内、あるいは田原、豊川在住の人のブログを読むのだけれど、一番に感じることは言葉を意図的に(意図していないのかもしれないけれど)子供的にしているということだ。ブログ、いや、ネットという世界で日本人のネオトニー化が進んでいる。
日本人(モンゴロイド)はネオトニー的特長を持っていると言われている。それを竹内久美子先生は「米を作っているから」という稲作文化論や「男は若い女を選んだほうが有利である」という定住生活論なんてことで説いてボクを納得させる。
どうもどんな状況においても日本人は「なだめの信号」を送る時に、「私は安全な人間ですよ」ということをアピールする時にはきまって幼くなるという方法を取るようだ。ネットの世界、要するに言語だけの世界では、その言語のネオトニー化が進んでいる。どういうことかというと、老いも若きも男も女も普段の生活では使わないような子供言葉を使う、あるいはちょっと幼い言葉を使う、例えば一人称にニックネームを使ったり、絵文字やひらがな文字なんて、普段は使わないだろうという言葉を使う。
「思っていたよりオジサンだった(オバサンだった)」というのが、オフ会などで実際逢った時の感想だったりする。どこかの社長だって営業部長だって企画課長やドクターでさえも、どこか子供っぽい言葉使いをする。
考えてみれば当たり前のことなのだ。ブログを利用して情報発信する、ということをしながら、自社の宣伝をするのだから、当たり障りがあっては拙い。不遜不当なことを書いて炎上でもしようならば、その企業の存続の危機なんてことになるかもしれない。そこまでならなくてもクレームの電話一本も来るだろうし。
地域ブログだとより一層そういった傾向が強くなる。読者はすぐ隣の美代ちゃんなのだから。徒歩10分とか市電で5分なんてネットで繋がらなくても糸電話で繋がる位置にいるのだから、危機意識は高まる。当たり障りのあることを書くととんでもないことになる可能性があるのだから、「安全宣言」をしながら「なだめの信号」を送るようなことを、無意識のうちに行ってしまうのはしかたないことなのだ。
そのために言語がネオトニー化する。そうすればとにかく安全なのだ。無防備な乳呑児に殺意を抱く人はいない。いたとしてもそれは10万人に1人とかぐらいだろうし、原因も「よく泣くから」なんてことなのだから、とにかく幼ければ幼いほど安全になるということなのだ。
そういう安全策を身につけていいるのが人間なのだ。それは目にゴミが入ったら涙が出るということぐらい自然なのだ。「オレ」よりも「ボク」のほうがより安全なのだ。「行った」よりも「いったお」とか「行ったよぉ」のほうが、そして「いったよぉ(^^)」のほうが更に安全なのだ。
発音するのも難しい言葉を使う。それはブログのセーフティマークだったりJIS規格マークだったり、特保マークだったりするのだろう。
情報を発信したい、という欲望は誰にでもあるのかもしれない。情報を発信する、自己理解を求めるということ、要するに人と繋がりたいということは(それが一方的であっても)人類の普遍的な欲望なのだ。言葉もそのために発達した。人の容姿もそのために変化した。文明文化はそのために発展した。戦争も宗教もそのためにおきた。
その欲望を安全に遂行するためにブログにおいては言語のネオトニー化が進んでいるのだろうと思う。それは特に地域ブログにおいて顕現していると思う。それが更に進んでゆくと、なんとも当たり障りの面白くもなんともないブログばかりになる可能性もあるのだけれど、繋がりだけを求めるのならばそれはそれでありなのかもしれないと思う。
自社広告に社会批評を述べるなんてことはしないし、笑顔がかわいい女優や子供店長を使うのと同じようことなのだろうから。
ただ、それはありかもしれないのだけれど、身の回りのことを絵日記風に小学生のように書いたブログを読むと、日本人のネオトニー化がますます進んで「日本人は12歳」とマッカーサーが言ったことがこの国の未来予想のように思えて、少し「果たしてそれでいいのか」なんて考えてしまっているのだ。
肉体ではなくて思想思考の成熟化が遅くなっていることで、いろいろな不具合も生じているのではないかと、思ったりしている。不具合というか、それが進化だったりするのかもしれないけれど…。
さてと選挙だね。
とても足の綺麗なお姉さん

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA