飛び降り自殺
いえ、ボクの哀しみや苦しみなんて、飢えや渇えに苦しむあの国の人たちや、不治の病に痛む人たち、社会の不条理に哀しみの深淵にある人たちに比べれば、たいしたことはないのでしょう。
今や、梅や桃、桜や雪柳、淡い白い花の後には、躑躅の赤紫がなんの躊躇いもなく咲き乱れている。淫猥な色香で春を告げる。その火照りを鎮めるように雨が降る。
今年の春は雨が多くて、街の風景も一転二転、躁鬱を繰り返していた。そして人の心もそれに重なる。ゆっくりと、例えば冬枯れた風景が、桜色や桃色から徐々にグラデーションをかけて変わってゆけばいいのだけれど……。
人の心は、それほど強くなくて、いきなりの変化や、逆戻りすることに耐性がない、そう思う。だからなのか、今年の春は少し嫌な事件も多かった。
悲風惨雨。人は苦しみの中にあっては、全てに対して盲目になり耳聾になる。雨はいつか上がると分かっていても、そのまま降り続けると思ってしまう。絶望してしまう。
飛び降り自殺
水曜日のデパートから飛び降り自殺した男は36歳だった。親切にも休館日を選んで飛降りたそのデパート東側にはタクシー乗場がある。休館日でなければ落ちる男をボンヤリとボクたちタクシー運転手は見ることになったのかもしれない。そしてそれほど変わらない歳や人生に、その男と自分の人生を重ねてしまったのかもしれない。
いつもボクたちが見ている退屈な日常の風景が、彼の最後の場所になった。いつも見ている風景なのだけれど、それは外側のことで、内部は貧困や悲痛なんてキーワードとはかなりかけ離れた華やかな場所なのだ。その外壁に沿って落ちていった男のことを考えると、ボクたちの生と死の境界線なんてのは、かなり曖昧なところにあるのだろう。
曖昧な立入り自由の場所。そこは逆に自分の苦しみが増加する不自由な場所ということなのだろうと思う。ボクたちの苦しみが苦しみとして頑固に存在する場所だったりするのだろうと思う。
「いえ、ボクの哀しみや苦しみなんて、飢えや渇えに苦しむあの国の人たちや、不治の病に痛む人たち、社会の不条理に哀しみの深淵にある人たちに比べれば、た いしたことはないのでしょう。」
そう思うのだけれど、それは自分がいる場所によっては絶望に変わる。それが格差だったり、差別だったりする。
絶望のある日常
病院やデパート、駅、人の集まるところには希望もあるのだけれど、絶望もある。人は常に相対的にしか思考できないでいる。ちょうど影のように希望と絶望は存在する。影が物体となって、また影を造り出す。
人は自殺する動物なのかもしれない。いや自殺するから人なのかもしれない。 自殺できるほどの自由が神によってボクたちに与えられた特権なのかもしれない。自殺するのも自由なんだけれど、差別し区別して幸せだと思い込むことも自由なんだろうと思う。
曖昧な出入り自由な場所で、自分が幸せであるということ、幸せ探しをしている。そう思った。その幸せが見つからなかった場合は、その場所から飛降りるのかもしれないと思った。それだけのことなのかもしれないと思った。
雨、丸栄タクシー乗場にて