一輪のカーネーション

一輪のカーネーションを大切そうに持ちレジに並ぶ少女の話、母の日…。

近くのスーパーに行く。カーネーションの鉢植えや切花がまだたっぷりと売り場にはあって、その横を母たちが通り過ぎてゆく。スーパーは日曜日の売り出しの日で混み合っていて、買い物かごいっぱいに野菜やら魚やらを詰めた、その母たちがレジに行列をつくっていた。

そんな母親の隣に、一輪のカーネーションを持った女の子がひとり。

買物を済ませて家に帰ると、ボクは部屋の掃除をした。暖かい、というよりも、汗ばむような天気。コタツをしまうかどうか悩んでいた。しかし、結局そのままにした。そして、掃除が終わるとボイルいた烏賊を酢味噌で和えたものと、ササミの塩焼きで酒を飲み始めた。暖かい日だったのだけれど、少しお燗をして1合と少し飲んだところで、眠くなった。

昔の夢をみた

ボクが小学生の頃。初めての母の日のプレゼントは口紅だった。小学生にしてはずいぶんませたプレゼントのように今は思う。そのことを作文に書いた。あの頃、母親は恐ろしく忙しくて、化粧をする暇さえなかったのだろう、ボクの記憶、というか、そういう母の姿を見たことがなかった。

朝、ボクが起きた時にはもう出かけていることが多かった。そして、夕方帰ってもすぐに家事に追われていた。だから、ゆっくりと向かい合うということもなかった。家族旅行なんてものも行ったことがなかった。なにか家族行事というものもしなかった。

ああ、その頃のことは前に書いたか。

母の日に母親からのプレゼントを貰う息子は幸せなんだろうね

最近は、子どもの頃の夢をよくみる。今よりは何倍も貧しかった。もらい風呂なんてこともあったし、定職のない人もかなりいて、近所の手伝いをしては何かしらの食べ物を貰っていた。貧しくはあったのだけれど、明るい毎日だったし、それが何かハッキリとは分からなかったのだけれど、明日への希望とか夢がそこいらに散らばっていた。活気とか熱気なんてものの気配があって、人々がイキイキしていた。

やっとテレビが、それも白黒が我が家にやってきて、冷蔵庫に洗濯機、いわゆる三種の神器が揃うだけで幸福が完成されるような時代だった。エアコンなんてものはなかった。竈があったし五右衛門風呂もあった。掘りごたつの燃料は練炭だった…。

ボクたちの変化

もうたぶん、そんな生活には戻れないのだろうし、あの頃と同じ夢とか希望なんてもののも感じられないのだろうと思う。

一瞬、と言っていいほどの時間に、ボクたちの多くのものは変化してしまった。

あの頃、家にあった冷蔵庫の容量といえば、今のボクが使っているものほどの大きさだった。家族8人なんての食材がそこに収まっていた。かご一杯分が一回の買い物の量だった。今のようにカートに積み、車で運ぶなんてことはなかった。満足の量も変化してしまった。幸せの量と言ってもいいのだけれど…。

一輪のカーネーションを持った女の子の右手には100円硬貨が握られていて、母親の後に続いてレジを通り、その100円を支払った。

満足の量や幸せの量が変わったとしても、きっと、母親は、スーパーで売られている100円のカーネーション涙するのだろうと思う。そして、そのことをこれから先ずっと覚えているのだろうと思う。

うまく言えないのだけれど、そういった100円の、一輪のカーネーション的愛情が、あの頃、ボクが子どもの時代には溢れていたのだろうと思う。

お金では買えないもの、そんな当たり前のことが、当たり前にあったのだろうと思う。それほど貧しくて、それほど不便だったのだから…。

一輪の花

白いカーネーション/井上陽水 – YouTube

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