母の日のプレゼントで考えたこと
盆も正月もゴールデンウィークも、それに自分の誕生日も、まして人の誕生日なんてものも関係ない人生を送っているのだけれど、唯一母の日だけは気になってしまい、何を贈ろうかと、毎年悩んでしまう。
母の日のプレゼントの行方
カーネーションの鉢植は贈らないほうがいい。そんな話をGさんとした。「夏になって根腐れして枯らしてしまう」そうなると、もらった母親は罪悪感に苛まれる。捨てるに捨てられない贈り物は、そのうち庭の片隅に置かれる。土と鉢と燃やすごみに分別するもの面倒で、庭の隅の隅に追いやられる。そんな母の日のプレゼントの行方…。
例えば、送り主である子どもが帰省する。その時、見覚えのある粗大ごみを発見して、なんだか気まづい思いをする。
なんてことになるに決まっている。枯れた後に片づけたとしても、その感覚は、例えば「楢山節考」の息子・辰平の背中の感覚に違いない。
「今さらカーネーションの生花をもらっても・・・」。確かに「今さら」感があるに決まっている。花を贈るのならば、毎年違った花のほうが、ボクならうれしい。「今年は薔薇の花束だったね」とかとか・・・。
母親が高齢になればなるほど、壊れない物は、今度はその日に「遺品」として残ってしまう。それを想像してしまったりもすると、哀しくもなる。処分する時に哀しみが増幅されてしまう。
そうなると、毎年消化されてしまうもののほうが良いと思う
食事、旅行・・・。食べ物、飲み物・・・。
まあ、実のところは、「なんでもうれしい」なんて言いながら、「なんても良いんだけれど、面倒くさいものは嫌だからね」なんて母親たちは思っていたりするのかもしれない。そしてその「面倒くさいもの」が「鉢植え」だったりする、そう思う。
じゃあ、今度の父の日、ボクが父親だったら・・・「面倒くさいから現金で、それも万券でね」と言うに決まっている。「食べ物なら、保存が効く米とか。まあ、こっちで勝手に買うから商品券で良いよ」と言うに決まっている。
そう思うのも、今年もまたけっこう考えてしまったからで、面倒くさいと思っているのは、贈る息子/娘だったりすのかもしれないと、ふと気づいてしまって、やっぱりダメ息子だとまた反省する、今年も反省の日だったりするのだ。