あの年の4月と下條村

#吉高由里子さんは魔性の女だ。
「花子とアン」に泣いた。
少し前までは日本にもどん底の貧困があった。それでも夢や希望なんてものもたっぷりあって、人びとの時間は今よりも軽やかに過ぎて行ったに違いない。ボクが子供の頃は、そんな貧しさの風景が残っていて、例えば長姉は集団就職で仕送りをしてくれたし、家にはテレビはなかった。もらい風呂なんて家庭もあったし、洋服は盆と正月しか買ってもらえなかったそんな時代だったのだけれど、ボクたちは「貧しい」なんてことを感じてもいなかったし、その生活が「辛い」なんてことも思わなかった。
あたり一面がモノクロの世界だったとしても、ボクたちはその風景に色を付けるだけのイマジネーションを持っていた。格差は厳然と存在していたとしても、それはボクたちにとっては希望と同じ意味だったし、豊かさは手の届く位置にあって輝いていた。
もう何年も、いや十数年、朝ドラを見ていなかった。みんなが騒いでいた「じぇじぇじぇ」も見なかった。そんな余裕がなかったのかもしれない。最後に続けて見たのは「春よ来い!」だった。1994年だったから、20年ぶりの朝ドラということになるのか…。
その1994年の春、ボクたちは下條村にSさんを訪ねた。九州からクルマでの旅だった。訪問前日奈良で一泊して、その次の朝「春よ来い!」を見てから出発したことをおぼえている。ボクとおばさんと、おばさんの飼っていたネコも一緒だった。
花は散っていた、きっと。ボクは半袖シャツだったし、あの冬にお気に入りだった化繊のインサレーションジャケットを持っていたので、寒さの残る4月だった。5月だったとしても、それは4月に近い5月に違いない。
ボクは、孤独の中に生きていたとしても、人恋しい性格で、あの頃は平気で逢いたい人に逢いに行くような生活をしていた。そしてかなり甘えられる性格だったので、その時の旅もそんな感じで、これといった趣旨や目的なんてなくて、ひょいとおばさんやSさんい逢いたくなったという理由だけで、夜にクルマを走らせたのが始まりだった。
井月の墓参りの帰りに20年ぶりに下條村や阿南町に寄った。ボクはあの時の場所を探したのだけれど、なんと情けないことかSさんの住んでいたところや、ボクたちが立寄ったスーパーマーケットなんて場所を確定することが出来なかった。
キチンと想い出の中にはその風景は広がっていて、マロンが失踪した駐車場や畑の場所なんてのは夢にまで出てきたりして、あの時の風や野焼きの匂いまでも記憶していたとしても、ボクはそこを探し出すことはできなかった。
なによりもボクがボクのことを哀しく感じたのは、Sさんの電話番号(もう十数年その電話番号にかけることはなかったのだけれど)を知っていたのだけれど、かけることが出来なかったことだ。その場所がたまらなく懐かしくて、もう一度そこに立ちたいと強く願っていたのだけれど、その方法を取ることが出来なかった。
孤独の中に生きていて、とても人恋しい性格なのだけれど、すべてを覆い隠して生きている。もう「ひょい」と人に逢うこともできないし、もう平気でボクのことを他人にさらけ出す、そんなことも出来なくなってしまっている。
それが良いことなのか悪いことなのか分からないでいるんだけれど、シアワセを感じることができないでいる。というか、なにかそういう風な生き方を選択しているのだろうし。シアワセではない生き方、それに憬れていたりもするのだろうし。
かじかの湯、ボクたちはまだ開設間もない温泉でずいぶんと騒いだもんだけれど、そこは昔のままそこにあった。ほとんどあの時のままで(当たり前のことだけれど)、ほとんど記憶と同じだった。花は間もなくだった。あの日もそうだった。大根サラダを食べた翌日、ボクたちは天竜峡に行って、馬篭なんて場所を観光した。
Sさんとは、特に喧嘩としたとか何か気まずいことが起きたなんてことではなくて、それからボクの時間が忙しく流れるようになってから疎遠になった。そして失業という人間不信の時を迎えてボクはボク自身から人を遠ざけるようになってしまって、もう昔の誰とも連絡することもなくなった。それも良いことなのか悪いことなのか分からないとしても、ボクはそういう生き方をしているのだし、その楽の布団の上に座っている。
ああ、あの頃も貧しかったのだけれど、夢や希望なんてものもあって、明るい未来をイメージすることが出来たなあ。今は、どうやって消滅するかなんてことのほうがボクの関心事で、おそらくそれは人の生き方としては間違っているんだろうけれど、きっとそれも楽な生き方なんだろうなあ。
今年は花を見ることもない。賑やかな場所に行くことを避けている。かろうじて仕事で社会との繋がりは保っていたとしても、まるで無人島にいる、まるで漂流者のようだ。ボクは人に絶望している。漂流者のままに都会で生きることはそれほど不自由でもないと思っている。ようするにぼっちなんだけれど、ボクはそれでもかまわないと思っている。
夢を喰うのをバクと言うのだけれど、過去を喰って生きているボクは…バカというんだろうなあ…。
かじかの湯 阿南町

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