青年はオアシスにとどまるのか

さて、荒野をめざすはずだった青年は、砂漠を彷徨い、そして見つけたオアシスにとどまる。トヨタの期間従業員という一見ハードでそして困難と思われる生活は、実はそれほどの苦労もなく、空漠な、寥郭なものと思われた工場での作業や、倦み疲れると言われるライン作業も、青年にとってはある種の快感となっていった。身体を襲う疼痛もマゾヒズムという性的倒錯となって快感に変わり、その痛みこそが精神の唯一の拠所、期間工という美学に変化していく。自虐という、もっとも慣れ親しんだ方法での美学だ。

作業中や寮での孤独といわれる時間は、実は青年たちがめざしたオアシスの条件であって、本当の孤独というものはバスの中や食堂、休憩室という一般的にこちらのほうがオアシスと言われる場所に、青年たちの敵が現れる。そう自己という敵だ。

じつは、トヨタ期間従業員は、青年たちにとってはオアシスであるということを、めざす前から薄々感じていて、そこに辿り着くまでには数日間の砂漠での彷徨はあるにしても、その道程は魑魅魍魎が跋扈するという類のものではなくて、夜道を歩くほどのものであったに違いない。それまでの生活で怖いのは自分の内部にあるものだったからだ。闘う相手は常に自己であったろうし、それは多分6畳一間の寮の広さほどのものだったと思う。旅立ちの場所であるそれまでの生活も青年たちにとってはオアシスであって、トヨタ期間従業員という生活も、それとほぼ同じようなものであるという匂いを薄々感じていた、ということだ。

『砂漠を彷徨う青年達が目指すのは「荒野」ではなく「オアシス」なのです。』そうかもしれない。荒野をめざした青年たちは、荒野にはオアシスが付きものということを知っていたのかもしれない。オアシスがあるから荒野なのだと。いや、結局、飛行機かなんかでいっきにオアシスをめざすのが、良いと思ったりもする。

さて寝るか。

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