退寮準備(12月23日)

「本当のものがわからないと、本当でないものを本当にする」

京都、東本願寺に書かれていたことばの前で、ボクは立ち止まってしまったんだ。「本当のもの」…「本当のボク」「本当の仕事」「本当の味」「本当のことば」「本当の愛」……。本当でないものってのがある。「本当でないボク」……。


この日のことをボクは一生忘れないでいるんだろうね。

「本当のボクがわからないと、本当でないボクを本当のボクにする」

では、今のボクは本当のボクなのだろうか。いったい「本当なもの」とはなんなんだろうか。ボクたちはいったいどれくらいの「本当のもの」をわかっているのだろうか。

例えばこの写真なんだけれど、23日の朝早くに最後の笠山に登って豊橋の方から登る朝陽を写した一枚。正円ではない、それはボクたちが本当と思っている太陽の形とは少し違った、本当でないもののようなものなんだけれど、それでもこれは太陽であって、ボクにとっては「良い感じのボケ加減だよね」って一枚になっている写真。でも、これは「本当の太陽」を写した「本当の写真」なんなんだ。

実は案外ボクたちってのは「本当のもの」をほとんど知らないまま生きていて、それはそれで特に困らないような仕組みになっているのだろうと思う。「本当のボクをわかって、本当の仕事に就けて、本当の味をあじわって、本当のことばを話して、本当の愛に巡りあえて、本当の人生を送り、本当の死を迎える」なんて人生を送ることが出来るという人のほうが、とてもレアケースのように、思う。

「本当でないものを本当にする」ということでボクたちはボクたちの心を慰撫している、そういった自己欺瞞の一生を送れるのが人間なのだと、思う。だって、例えば野生動物の世界では本当ではないものは100%に近い確率で生きることが出来ないだろうし、たとえ生き残れたとしても子孫を残すということはこれまた100%に近い確率で不可能だから。泳げない魚は、飛べない鳥は、泳げる魚でも淡水魚と海水魚がいるように、飛べる鳥でも大気圏は越えられないように、動物たちには動物たちの「本当さ」があって、それを逸脱することはできない、というか「本当」でなければ生きていけないのだろうと、思う。

あ、いえ「本物」ということと「本当」ということは違っていて、「本物」というのは唯一無二のものであって、決して「本物でないものを本物にする」ことは出来ないと思うんだけれど…。贋作や模造品ってのはあるとしても、それは本物を知っている、あるいは本物ではないという認識下での行為であると、思うんです。

では、この京都の仏教寺院の一画に掲載されたことばはボクたちに何を伝えようとしているのでしょうか。本当のものってのをほとんど知らないままで生きているボクたちだとすると、本当のものと出逢うためには、実は「本当なもの」であるかどうかということを、まず考えて見なければならないということから始めなければならないのではないかと、それは懐疑主義ということとは少し違う、例えば「オレはオレは」と今の自分がいかにも本当の自分ではないような否定の仕方ではなくて、今の自分も「本当のもの」であると同時に「本当でないもの」であるという考え方をすることではないかと思うんです。全てを肯定する生き方をしない限り、本当でないものってのが見えてこないと、思うんです。否定じゃなくて……。

23日、ボクは朝陽を見るために笠山に登りました。それから部屋の片付けを始めたのですが、なかなか終わらなくて…。荷物はダンボール箱2個だったのですが、もう1つ増やすかどうか迷ったりしながら、かなり捨てました。その後部屋の掃除をして退寮時検査を済ましたのは15時前でした。それからボクは15時30分のぐるりんバス童浦線に乗って田原駅に向かいした。寒い午後でした。
とても寒い感じのする田原駅前でした。駅のホームの向こうに沈む夕陽を見ながら、ボクはただ田原の街を見ていました。
今、こうして思い出すとなんだか悲しい風景の中にボクがポツンとバス停に座っていて、それは全体としてとても悲しい風景のようなんだけれど、ボクはボクにとって本当の田原を想い出にしたかったのかもしれないと思っています。最後の田原の夜も眠れなくて、これから何日も睡眠不足が続くのだけれど、その分ボクはいろいろな風景を感じて、いろいろな言葉と触れていたと思っています。

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