福岡天神の路上詩人

路上詩人三四郎さんのことは少し知っています。でも彼はボクのことを知らなでしょう。昨日ふと気になって検索したら久しぶりに出会えました。最近ブログを開設したようで、ま、これもなにかの縁なのでしょうね。
三四郎の今日のヒトコト

こういう生き方、路上詩人や路上絵師(?)あるいはストリートミュージシャンなんて人たちが表現の場所を路上に求めて、そして彼/女たちが対価としていくらかのお金を受け取るという生き方を、ボクはかなり憬れていた頃があったのですが、ボクにはその術がなかったので、それじゃ、ま、なんか芸を身につけるかと修行した日々もあったのですが、結局は路上に立つことはありませんでした。


柴又の帝釈天ではなくて、豊川稲荷だからね

自分の思想に反する生き方、例えばこうして「トヨタはいかんよ」なんて書きながらそれでもトヨタで働くということを、ボクは正しくはないと思っているのです。それと同じで現在の社会に

「この国はいかんよ」と思うなならば、国や組織の一員となって一枚の歯車の歯となっる生き方は正しくないのかもしれません。

国を捨てて海外に住むということが難しいのであれば、社会的な関係を断つという生き方もあるのではないかと思います。ニートと言われる人たちの多くもそういうことを考えていて、仮に労働したとしてもその対価が時給800円ぐらいなら、「生活保護を貰ったほうがまし」だし、それを分かっていてワーキングプアなんて呼ばれる人たちを作り出している企業に賛同した生き方なんて「出来るか」と考えていると思います。

中年Hさんから頂いたコメント「『仕事に打ち込んで、世の中に役立ち、自分自身も幸せだった』と感じられる生き方が、時代はどう変わろうと、最終的にはみんなが求めているものではないのでしょうか。」というのはもっともだと思います。でもね、自分自身が幸せにならないような仕組みのネタバレ社会だと、そう思うことが果たして出来るのかということを考えているのです。

社会(social)というものが時代とともに形を変えていて、それは現在においては歪なものになっているように思います。あるいは透明なものになっているのかもしれません。その社会に合わせて自分も変えられると良いのですが、それが出来ない人にとっては(妥協できない人にとっては)社会(集団)への所属ということは難しいのかもしれないですね。でも、それは出来ない人が全て悪いのではないと思います。てか、できないほうが「正しい」のかもしれないですね。

話はばらけましたが、三四郎さんとこうして巡り逢えたことはボクを感動させましたし、やはりネットというのはこういった再会をさせてくれるすぐれ物だと思いました。

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