それでも信じるものは救われる

このリスク社会における生存競争において有利な位置を占めているのは、僕たちの社会が努力が必ずしも報われないリスク社会であるという基礎的事実に逆らって、依然として努力している人々なのです。

ということなのだと思います。努力しても報われないということを分かっていても、努力しなければスタートラインにも立てないということを信じている人たちが、その生存競争を生き抜けるのだと思います。
そう思うことの出来ることが「強い精神力が、努力よりも先に必要とされているだろうし、また、より効果的なんだと思う」ということだと考えています。「努力が報われなくても絶望しない」というのは、努力が報われるということを前提に、ということでしょうから。
「一人一人のモチベーションも下がって」いくのでしょうが、それでも「努力すると必ず報われる」ということを信じて、それを動機づけとして行動することが求められているのだろうと思います。

「教育達成のために努力すると必ず報われる」ということを家族の全員が信じていて、現にその努力の成果を享受している家庭に育った子どもと、「勉強なんかしても意味がない」と広言し、現在社会的に低い階層にいるが、その原因はおのれの努力不足にはないと言い張る親に育てられた子どもとを比べた場合、「努力する動機づけ」において決定的な差ができてしまうということは避けられません。

ということだと思います。努力したら報われるということを信じるか信じないかの差、それはそれほど強い精神力を必要とすることではないかもしれません。単純な、というか、純粋さというような、あるいは愚直さというような精神のありかた、が、必要な時代なのかもしれません。
そして、きっと、努力が報われなくても、努力不足と分かっていても、どんな人生であれ『でも僕はあえて言いたいんだ、「それでも人生は素晴らしい」って。』なんて思えることが大切なのかもしれませんね。
なにも「成功」とか「有利な位置」とか「成果」ということは、ひとつではないのだろうし、「金を儲けることが上手い」だけのことではないでしょうから。
ボクは、本人の努力とは別のものに運命を左右されている世の中ではあるとは思うのですが、それをやはり「おのれの努力不足ではないと言い張る」ことや、人を怨んだり妬んだりすることだけは、しないようにと思っています。ボクが、この場所にいるのは、ボクが選んで決めたことですから。
トヨタのライン工をして思ったのですよ。ボクがやってきた努力なんてのは実はたいしたことがなかったって。毎日8時間、同じ動作を繰り返えせば、例えば1分×500なんてことを繰り返せば、それを何年も続けていれば、何かが出来たのではないかって。10年とか20年とか。もしかしたら東大にでも行けたのじゃないかと…。(それは努力ではどうしようもない部分もあるのだろうけれど)
今回の岡山の事件も、10年とか20年のスパンで考えることが出来たら、10代の2年や3年、あるいは5年や6年なんてのは、そんなに焦らなくても急がなくても良かったんじゃないかと思うのですよ。期間工に来て学費を貯める人だっているのだし、30代から大学に行く人だっているのだし。(そのことだけが原因ではないのでしょうが、それに考えることが出来ないのも人なのだけれど)
「期間工を想え」
と思うのです。きっと、何かが出来るはずだし、何かが出来なくても、何かが出来るためには何が必要なのかは、きっと知っているはずだろうから。それは反復であったり、痛みであったり、沈黙であったり、愛であったり、するのだろうし…。

なんて、ボク自身に言い聞かせていたり。
この記事を書くのに一冊の本を読んだのだから、かなり努力をしていると思うのだけれど、そんでも、そんな努力なんて報われることはなくて、というか、「一冊読んだ」なんて書かないと分からないだろうし…。ま、いいか、それでも、ボクは信じているのだけれど…。
*引用は内田樹先生の「下流志向」からです。

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