印度放浪

藤原新也さんの著書。ボクがインドに行くのを決定づけた本の中の一冊だったようにも覚えている。もう一冊は「インドでわしも考えた」これは椎名誠さんの本で、ま、例の椎名節というか、あれなんだけれど。「インドで考えたこと」も、もちろん読んだのだけれど。
そしてもう一冊「メメントモリ」もよく読んだかな。ガンガーで死体を食う犬の写真というか、犬に食われる死体の写真「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」という一行…たぶん、その一行が最後に背中を押してくれたのだろうと思う。
「メメントモリ」死を想え。
たぶん、その頃のボクは、藤原新也さんのそれらの本を読んで、そしてその写真に白抜きで書かれている一行とか二行の文字に、かなり衝撃を受けて、きっと、同じ場所に立てば、何かが見えるかもしれないと、そして、何かを想えるのかもしれないと、考えていたんだ。
22か23のガキだったボクの回りには、まだ「聖なる」ものがそこいらにあったように覚えている。例えば、河原に住んでいた老人でさえ、ボクたちは恐れという何か神聖なものを感じていたし、その場所に住む、あるいはその場所に立てるという資格が、ほとんどの人に備わってはいないようにも、感じていた。
昨日も書いたのだけれど、神聖なものと禁忌とは表裏一体となって存在する。それが聖なるシステムなのだ。「犬に食われるほどの自由」ということは、そういうことなのだ。そしてそれがガンガーなのだと、ボクは、インドで考えた。
神聖なもの、というのは、ボクたちが立ち入られない世界に存在する。だから、ボクがいくらインドに行って、オレンジ色のサドゥ服を着て、瞑想をしているふりをしていても、そしていくらガンチャを吸っても、たまにはオピウムを決めたとしても、ボクには、いやあの頃「Kumiko House」のドミトリーに居座っていた若者たちには、帰る場所がキッチリと用意されていて、何かを捨てたとしても、帰りのチケットだけは貴重品袋にしっかりと持っている、そういった曖昧さの中で、あるいは、卑怯な方法で、死を想うことなんか、到底出来ないことだったのだろうと、今は考えている。
その、帰る場所のある旅を続けていることへの自己嫌悪みたいなもの、例えば、50mmの単焦点レンズで写すのではなくて、遠くから望遠で写真を写すような行為に似た感じの、被写体との関係の旅を、ボクはアフリカでも続けていたのだけれど、その卑怯さみたいなものはどういう旅の形を取ったとしても、抜け出せないという考えに至っては、結局は、どこへも出かけなくなった。
ただ気持ちいいだけなのだから…。
旅というなにか万能薬は、結局、呪い(まじない)みたいなものだったのだろうと考えたりもした。
だから、ボクはほとんどの場合、ボクの経験してきたインドやネパールの話とかアフリカの話をしたことがない。そしてその旅とか移住なんてことが、それほど重要事でもないし、さらにボクの現状を見てもらえば分かるように、「そのこと」が人生の中で何の役にも立っていないということなのだから、結局は貴重な体験という無駄な時間を過ごしてきただけ、のことなのだろうから、それを話すことに対して、少しだけ羞恥心みたいなものも、あるし、話したとしても、半分ぐらいの人は信じてくれなかったりするので、面倒くさいということもあったりする。信じてもらえないくらい、ボクが「それらしき人」ではないのだろうと思うと、なおさら、20代の半分という長い期間のことが、無駄な時間だったように考える。
人は、というか、この国では、自分の立てない場所にいる人にたいしての尊敬とか神聖さとかいう感覚が、かなり希薄になってしまっているように感じる。というか、尊敬はする。それはただ一点、成功者とか言われる人種の人たちを拝み奉ることは、よくやる。その成功者とは、精神という神聖なものを多く獲得した人ではなくて、逆の、禁忌されてきた部分、例えば貨幣とかを多く手に入れた人たちを神と崇めることなのだ。
人は、犬に食われるほど、自由だったはずなのに、そのことを、多くの人は忘れてしまって、自由とはヒルズに住むことを頂点とする形式の世界、みたいな構図の中に、キッチリと自分をサイジングしてしまっている、という不自由さの中で、犬にも食われないほどになってしまっているのだよ。
あるいは、大きなキッチンのマンションに住み、デジタルディバイスをたくさん持って、車にバイクに…なんて生活こそが、実は大きな足枷になっている、ということなのだよ。今更ここに書き出さなくても、そのことは、とっくにソローが「森の生活」で書いていることなのだ。
帰る場所、どころか、捨てられない物の中に埋もれて生活する、ということが、ボクたちの旅をも窮屈にしているし、卑怯なものにもしている、ように考えている。
実は、何もない位置にいることこそが、神聖な場所だったということを、ほとんどの人が忘れてしまっているということなのだ。それは、多くの場合、宗教を捨てたということにもつながるのだけれど…。
長くなったね。
ただ、決して、決して、これだけが言いたかったのだけれど、あなたと違うということが、貧しいということではないということ、それ以上にあなたよりも自由ということなのだ、ということを、ボクは、卵L玉10個100円を買うために30分かけて自転車をこぎながら、考えたのだけれど…。
さてと、オムレツでも作るか。
#オムレツを50円で作れるほどの自由なのだよ。

夜咲く花。ユリノクリトリス…。

3件のコメント

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    質問への回答は、記事としました。
    というか、どうもすみません…。
    しあわせを探す旅人、なのかもしれませんね。
    生きる、というか、日常が旅なのだから、だいたい改めて旅なんて形をすることもないのかもしれません。
    自分探し、なんて言うけれど、自分を探したければ、も少し自分の過去を知っている人と向き合うべきだろうし、自分が育った環境を知るべきだろうと、思ったりしています。
    インドに行ったからって、アフリカ行ったからって、何も変わらない、ということなのでしょうね。

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    銀河鉄道999
    汽車は闇を抜けて
    光の海へへ
    夢が散らばる無限の宇宙さ
    星の架け橋渡って行こう人は誰でもしあわせさがす旅人の様なもの
    希望の星に巡り会うまで歩き続けるだろう
    きっといつかは君も出逢うさ青い小鳥に
    汽車は銀河を越え最果て目指す
    星は宇宙の停車駅なんだ星を招くよ夢の軌道が
    さすらい人の澄んだ瞳に生命(いのち)が燃えているよ
    心の歌を口ずさむよに歩き続けるだろう
    泣いてるような星の彼方に
    青い小鳥が
    人は誰でもしあわせさがす旅人の様なもの
    希望の星に巡り会うまで歩き続けるだろう
    きっといつかは君も出逢うさ青い小鳥に
    なんとなく、思い出してしまいました。

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    ユリノクリトリスとは花の名前ですか?

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