枯野
2009年2月10日
貧しさに負けた
いえ 世間に負けた
この街も追われた
いっそきれいに死のうか
力の限り 生きたから
未練などないわ
花さえも咲かぬ 二人は枯れすすき
「昭和枯れすすき」という歌詞です。
時事ドットコム:踏切内に男女、はねられ死亡=抱き合い自殺か-埼玉
10日午前零時50分ごろ、埼玉県入間市黒須の西武池袋線武蔵藤沢第4踏切で、抱き合った男女が池袋駅発飯能駅行き準急電車にはねられ、死亡した。県警狭山署は自殺の可能性が高いとみて身元を調べている。
その歌詞を思い出しました。
どういう事情だったのかは、まだ分かっていないのでしょうが、こんな方法での心中(心中ではないかもしれませんが)は、これまであったのかなあ。抱き合ったまま確かに近づく列車の音を、どんな思いで聞いたのかなあ。そしてそれが幸せだったのかなあ。
きっと血とか肉とか、その瞬間に一緒になったのかなあ。その場所には春になれば花も咲くのかなあ。なんて、思ったよ。
考え中さん、おはようございます。
エレジーというか、そういう日本人の心的なもの、エートスとまでは言わないけれど、郷愁的なもの、があるのだろうと思います。
最近は練炭とかトレイ掃除の薬品とか、情緒もなくなってるし。なんて書くと、怒られそうですが…。
「2人だから生きていけなかった」というのは、奥深いですね。
驚きや反応は、そういったものを忘れていたということなのかもしれないと、ボクは思っていたりします。
本当はどうなのか判らないけど、昭和枯れススキっぽいよねぇ。
妙に懐かしかったり、変に羨ましかったりして。
2人でも生きて行けなかったのか、2人だから生きていけなかったのか。
忘れていた驚きと、反応している自分への驚き。なんでだろう?。
MUKUさん、おはようございます。
そうですね、何回目かの春には。
それでも「悲しみの踏切」なんて言われて、涙も流したりして。
そう言えば、今年は太宰治の作品が映画化されるそうで、太宰と山崎富江の玉川上水での心中を思い出しました。
あれは、緋もでしっかりと結ばれていたそうですね。
タンポポとか咲くでしょうか。チョウチョも飛んでいそうだな。夜は近くで桜の花びらが舞ってたりして… 時々事故のこと思い出す人もいるんだろうけど、何回目かの春にはもう忘れられてしまうかもしれませんね。
死は全ての終わりを意味します。
いかに生きるか?それこそが意味あることだと思います。
全く同情のかけらもない死に方ですね。
最悪です。