浜名湖ボート事故

「章南中学校まで」そう男は告げた。
「こんな時間に何の用があるのだろうか」そうボクは思った。
「国道259号線は混んでいるので、大崎まわりで良いですか?」というボクの問いかけに黙ってうなずいた。沈痛な面持ち。それは空模様のせいだけではないようだった。雨は小降りになっていたのだけれど、風はまだ強く、木々や電線に溜まった雨の滴を揺り落としていた。車の天井にそれが落ちると、まるで雷が鳴ったかのような甲高い金属音が聞こえた。
真冬の、雪が降る時の空だと思った。低気圧がこの世のもの全てを圧縮しているように感じた。
章南中学が見えるところまで来ると、なにかアンテナのようなものを立てた車が停まっていた。それがテレビの中継車だということはすぐに分かった。そしてボクがそこまで乗せて来た男が何者かもすぐに分かった。
もうそこはテレビニュースの舞台となる準備が整っていた。校庭には数十台の車が停車していた。その出入りする車の警備をしている若い女性の表情からも、ただならぬ事が起きているということがうかがわれた。
章南中学校の生徒数十人の乗ったボートが浜名湖で転覆したということを知ったのは、その男を降ろしてすぐだった。そして女生徒が亡くなったということも。
昨日の豊橋は台風のような天気だった。車を運転するのが怖いほどの天気だった。浜名湖もかなり波がたっていたのだろうと思う。湖も大きくなれば海のようにうねる。昨日の天気の中、海だったら…たぶん、訓練は中止されていただろうと思う。
どこかに湖という安心感なんてものがあったかもしれない。湖だからまだ身体のできていない中学1年生を水に浮かべたのかもしれない。海だったら…きっと全ては中止されていたのだろうと思う。
集団でのこういった活動・訓練が必要なのかと、こういう事件事故が起きるたびに思う。身体が弱かったり、例えば泳げなかったりする子供が死ぬ。100人いたら100人を同じ条件のもとで同じ事を行わせる。学校行事だから強制性もある。田舎の学校ほど均一性や同一性を強く求めがちのようでもある。嫌なことを嫌だと言えない。右にならえ…。没個性。
嵐の日に、誰がすき好んでボートを漕ぎたいと思うのだろうか?予定だから執行されなければまずいのだろうか?本当は、暖かい部屋の中で、雨降る湖でも眺めながら読書をしたかったのかもしれない。あるいは、ゴロゴロとしていたかったのかもしれない。帰りたかったかもしれない。
危険なこととか苦しいことを12歳とか13歳に味わう必要はないと思うのだけれど…。「集団生活」ということをその歳に教えなくても良いと思うのだけれど。いや、そういうことは大人になり社会に出ても、それほど重要な案件ではないと思う。
社会生活を送るスキルを学んだとしても、そういうことに熟練したとしても、それがいったいなんになるというのだ。人生で最も重要なことは15歳でどれだけテストの点が取れるかということなんだから。どれほど貴重な体験をしたというところで、経済の好不況によっては仕事もないのだし、結婚して幸せな生活を送るということとほとんど関係ないように思う。
そういうシステムの国にしてしまったのだから、今さら「集団」なんてキーワードで関連つけた学校行事をやってもしかたない、なんて思っている。
逆に、そういうシステムの中で育った大人たちに危険を嗅ぎ分ける能力があるわけがない。だから嵐の中でも平気で船を出す。本当に訓練が必要なのは指導者側なのかもしれない。いや、そうなのだ。
その報道関係者を降ろしたあとボクは少し離れた場所から中学校を見ていた。そして車から降りてその方向に手を合わせた。雨は止んでいたのだけれど、風は相変わらず強く吹いていた。何もこんな嵐の週末に死ぬことはないのに、そう思ったら悲しくなった。
雨、国道1号線

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