桐生市小学生いじめ自殺事件雑感

中学生の頃、転校したことがある。
どうもうまく馴染めなくて、ひとりぼっちの時間を長く過ごした。いじめられたという経験はないのだけれど、いつもひとりぼっちだったし、言葉の違いとか授業内容の違いなんてことから、戸惑うことばかりだったし、その戸惑いがそのまま沈黙になってしまっていた。
給食を食べないで早退することも多かった。休み時間が一番辛かった。授業中はみんなきちんと机に着席していたし、みんな黙っていた。だから、孤独ということをそれほど感じることはなかった。休み時間には、ひとりぼっちということを感じた。みんなは友だちだったし、クラスメートだったのだけれど、ボクだけが違っていて、取り残されているように感じていた。
しばらくしてもう一度転校することになったのだけれど、その中学校では友だちは、ひとりも出きなかった。ああ、そう言えば川島くんが、ボクのことを気にかけてくれて家に招待してくれたっけ。残りのクラスメートのことは、どうしても思い出せないでいる。それほど薄い関係だった。学校からトボトボとひとり帰っているボクの姿だけを思い出すことができる。表の道ではなくて、裏道を通って帰っていた、あの頃のボク…。
群馬県桐生市の小学6年生の女児(12歳)が、自宅で自殺した事件なんだけれど、彼女も転校生だった。転校生は、それだけで「いじめ」の対象になると思う。目立っても、目立たなくても標的になる。中間がいいのだけれど、そういうことを小学生や中学生がコントロールできるわけがない。
人は変化に弱い。それは転校や転職で入っていく側だけではなくて、受け入れる側にも言えることで、何かが変わるということはそれだけでストレスフルなことなのだ。ボクたちは、例えば繰り返し、それも昨日と同じ、とか、いつもと同じ繰り返しに安らぎを感じる。いや安らぎというか快楽を感じる。恒常快楽なんて言ったりするそれだ。
言い換えれば変化に弱い生き物なのだ。転校生が変化に強い場合、そして受け入れる側が変化に弱い時に、いじめは顕著になる。例えば小さな地域における排他主義的な意識のように。それは差別になったりもする。もうみんな知っているように、子供だけではなくて、大人の間でも起きる。あるいは部族間でも人種間でも国家間でも起きる。
いや、それは起きるとしても、子供を転校させるということは、そういう(いじめられる)可能性があるってことを覚悟しなければならないということなのだ。いじめられる、ということにならないとしても、とても孤独な日々を送ることになるかもしれないということだってあるのだろうし。
その小学6年生の女児は愛知県から転校してきたという。もしかしたら父親は、派遣社員だったかもしれないなあ、なんて思っている。もしかしたら派遣社員で職場を転々としていたのかもしれないと思っている。
非正規雇用、有期雇用で転職や転勤を繰り返さなければならない雇用システム(非正規雇用者が増えること)は、多くの転校生を生み出している。そしてそれがいじめられる、いじめる環境を増やし、大人だけではなくて、子供の自殺を増やしている原因ではないかと思うのだけれど。

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