春霖

春一番が吹かずに、冬の気配をたっぷりと残したまま季節は変わる。冬にしがみつき散りそびれた梅の花が、雨に落とされ地面で汚れている。別れの季節。
15の春。公立高校の合格発表が昨日あった。新聞ではその「喜び」の姿を写真で報せる。親子で抱き合う姿、友だち同士で並んでピース姿、受験番号を指差し自慢げな姿…、どれもこれも「喜び」に満ち溢れている。
15の春。その「喜び」の写真の写らないところには、数はわずかではあるのだけれど哀しみも存在する。母親に肩を抱かる姿、涙をぬぐう姿、どうしたらいいのか戸惑う姿…、どれもこれも「哀しみ」にあふれている。
無慈悲にも集団は冷酷だ。隣の不幸なんてことに気を使うほど優しくはない。そして写真はトリミングされ「哀しみ」という事実を消し去っている。さらにご丁寧にも「新入生のみなさんへ」などと校長や生徒会長のコメントまで載せている。
ああ、その写らないところに哀しみの人たちがいることを、人々は忘れてしまっていては、「喜び」だけに目を向けてしまう。ちょうど落ちた花びらが踏みつけられ汚される桜のように、あるいは水に落ちた犬のように…。
15の春。ボクも写真の写らないところにいて、それまで味わったことのない気持ちに慌てふためいていた。哀しみだけではなくて、恨みとか妬みとか嫉みなんてものが一気に身体の中を駆け巡る。
ボクはひとりだった。それ以来ボクは「友だち」という言葉を口にしなくなった。
友だちなんてのはいなくても生きていける。こうして誰とも話さない一日が繰り返されることもそれほど問題ではない。「写真の写らないところ」なんてものではなくて、人生に影がなくてもそれはそれで十分だ。人と付き合わなくてもなんとかなる。下手に付き合うと不幸になる。親兄弟親戚なんてものがないほうが楽だ。こうして生きて行ける。
その花びらを踏まないでくれ、その雨に落とされた花びらの哀しみを思ってくれ、その泥に汚れた花びらの純情を辿ってくれ、なんて叫んだところで、ひとは残酷だ。誰ひとり、梅の花や桜の花の行方なんて知るひとはいないし、興味なんてものはない。
ひとに振り回されるより、ひとりで生きてゆく方が楽だ。人生なんてものはそういうものだ。「友だち100人出来るかな」ではなくて「友だち全部捨てられるかな」というのが正解なのだ。
落下狼狽 梅の花

4件のコメント

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    茄子さん、こんにちは。
    小学→中学→高校、環境を変える、自分を変えるのには良い機会でもあるのかな。
    なにごとも自分次第ということなのでしょうけれど、人間関係が煩わしく面倒に感じます。
    天涯孤独になった時に、ボクは別に「考えなければならない」なんて考えたこともなくて、そうなるのだから仕方ないか、なんて思っています。
    ひと様に迷惑はかけたくはありませんけれど、孤独死したら迷惑かかるのでしょうね。

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    小学→中学→高校…と環境が変わって新しい友達(?)を作るたび、過去の友達との関係は薄れて音信不通になっていく。
    一生涯のうち、長く付き合える友達、知人は果たして何人いるのか? 自分の齢を重ねる度にこういった友達とか知人とか親族もそうですがいずれ一人また一人といなくなっていきます。
    これも自然の摂理と考えればそうなのでしょう。
    最近は孤独死のニュースをよく耳にします。
    天涯孤独で生活しなければならなくなった時、どうすればいいのか考えなければならないですね…

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    50歳名古屋さん、こんにちは。
    そうですね、良い経験になったのだろうなあ、なんて考えています。不合格になったことと、合格したこと。
    最近は公立高校も第一、第二、2校受験できるようで、哀し思いをする子どもも少なくなったのかもしれませんね。
    まあ、高校受験なんてのは、オミクジみたいなもんで、問題はこれからの長い人生をどう生きるかってことなんでしょうし。

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    昨日うちの娘も高校の合格発表でした。成績が悪いくせに担任からもらった私立高校の推薦を蹴って一般入試に挑戦したのです。結果は第1志望の私立は不合格、第2志望(推薦をうけたところ)と第3志望(すべりどめ)の私立に合格でした。当然、このままでは引き下がれず推薦をうけた私立より少しだけ難易度の高い公立高校を受験しました。人様に話しても何の自慢にもならない、地元のふつーの公立高校です。なんとか合格しました。骨折り損のくたびれ儲けのような話ですが、不合格をくらったことも含めて、それでも娘にとって良い経験になったのではないかと信じてます。

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