季節工

稲刈りが終わり街に冬の気配がするころ、製造業や建設業の現場には季節工として多くの人たちがやってきていた。製造業、特に自動車関連企業は、春にかけての新卒者の大量需要のために繁忙期となる。農閑期と製造業の繁忙期とが重なって、労働力の需給バランスが保たれていた。それがこの国の経済の発展のためにうまく作用していた。お互いが豊かになっていった時代だったし、企業はまだ労働者や国民の利益を優先していた時代だった。
労働者を調整弁なんて物扱いしなかったころ、そして使い捨てなんて非人道的なこともなかったころ、季節の訪れのようにトヨタの街には東北や九州から多くの労働者が訪れ、そして春になると「じゃあ、また」なんて再会を約束して故郷へ帰っていった時代もあった。それが季節工というものだった。
今はというとグローバル化という季節のない生産現場となってしまって、季節工という人の体温の感じられる働き方から、期間工なんていう情緒なんてものとは疎遠な、まるで機械仕掛けの道具のような働き方に変わってしまっては「じゃあ、また」なんて生身の人間の言葉は喪失してしまって、イロウキンとかホウショウキンなんて冷たく鋭利なものとすり替わってしまっては、人と人との繋がりをその切っ先で断ち切ってしまっている。
そして今年もまた期間工の季節だ。
不景気という無期限の農閑期の人々がトヨタの街に増えている。いつもの年と同じ年度末による需要に消費増税によるかけこみ需要が重なり、人手不足らしい。無期限の農閑期、調整弁として使われた後に彼らに帰る場所はない。耕す土地もない。癒される家族もない。将来の夢もない。明日の希望もない。
ただあるのは生きるために、いや死ねないために働かなければならないという、哀しい運命だけだ。春は来る。春は来るのだけれど、ボクたちには本当の春なんてものは訪れはしない。季節工ではなくて期間工なのだから…。
トヨタの街の秋

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