サービス業としてのタクシーについて

タクシーはサービス業なのか、という議論が定期的に起こります。

というのも、タクシー事業が産業上の分類で「旅客運送業」になっていて、さらに道路運送法、旅客自動車運送事業運輸規則といった法律にも「旅客自動車運送事業」と定義されているからです。

ところが、この分類については「産業を分類するための便法」であって「広義のサービス産業」になるということと、タクシーをサービス業から排除することの困難さについて、以前このブログで考えてみたました。

タクシーはサービス業かという論争についてタクシーはサービス業か、という論争があります。 不毛な論争、とまでは言いません。しかし、そのような職業分類を持ち出してどうするんだろう、と思っています。 タクシー運転手が「サ…
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タクシーはサービス業かという論争について

今回は、職業や産業の分類上の話ではなくて、労働とその価値や賃金という側面から考えてみたいと思います。

労働とは何か

はじめに、ボクたちは働いてその対価として「賃金」をもらっています。労働の対価は「賃金」なので、同じ条件で同じ仕事をしていれば、賃金が高いほうが「良い仕事をしている」と言えます。

労働の価値

賃金はボクたち労働者が決めるわけではありません。その労働の価値で決められます。

価値は「社会の平均的な労力の大きさ1」で決まります。つまり、地域、業界、会社、部署でおおよその賃金が決まっています。(最低賃金より上という法的制限もあります)

賃金=価値とするならば、価値が高い人は賃金も高くなります。

このことを職種にあてはめてもいいでしょう。社会的な使用価値が高い労働にたいして賃金は高くなります。

使用価値

次に、モノの値段を考えてみます。

モノの値段も上述の通り、価値で決まります。ですから、値段=価値になります。さらに値段は使用価値によって上下します。

例えば、利用者が価値があるものだと認めれば値段も高くなります。しかし、いくらなんでもタクシーワンメーターに100万円を出す人はいません。ゴッホの「ひまわり」に58億円出す人はいてもです。

タクシーの価値

以上のことをふまえて、タクシーの価値を考えてみます。

タクシーの場合、値段(=価値)は乗る前から決まっています。市場が決めるのでもタクシー運転手やタクシー会社といった個別の使用価値や品質で決まるわけでもありません。また需要や供給という原理の中で決まることもありません。

常に同じです。値段は国が認可し同じ地域なら同じ値段です。(総括原価方式も「平均的な労力の大きさ」と言えます)

ところが、値段(=価値)が同じはずなのに、古い車両があったり、地理に不案内、不愛想、中には遠回りになったり、そんなタクシーもあります。運賃均一、品質不均一なのです。

選べない

つまり、品質は違うのに値段は同じなのです。いえ、品質が悪いのに値段が高いこともあります。

当たり外れがあるということです。ただし、値段は同じ、ということです。

このことは、利用者、運転手双方の「安心」を担保しているとも言えます。例えば、流しであるいは駅で乗り込んだタクシーの運賃に差があるとします。利用者が選択できない状況で、値段が違っていると混乱が起きます。タクシーの運賃制度はその一点(運賃が同じということで)安心安全を保障しているとも言えます。

しかし、その同じ値段ということが、運転手の価値の創出を阻害してきたとも言えます。なぜなら、どんな振る舞いをしても「同じ」だからです。

価値の創出

この運賃の均一性と、品質の不均一性が「サービス業」を否定できる要因です。悪く言えば、運賃や規制に守られてきたことこそ、タクシーの品質向上を阻害してきた、と言えます。なぜならば、専門性や個性、サービス性がなくても売れるし、そして料金も同じだからです。

例えば、ケーキ屋を開業したとします。製造業としてただ単にケーキを作って売る、だけでお客様が来ますか?ケーキの形をしているだけで、美味しくもなく不味くもなく、特色もなく、愛想も悪い、たまに臭いのがある…。

そんなケーキを売っていれば市場の中で、淘汰されます。つまり倒産します。

では、倒産させないために何をしますか?

考えられることを列記します。

  • 美味しいケーキを作る
  • 見た目を工夫する
  • トッピングに珍しい果物を添える
  • お店を明るい壁紙にする
  • SNSで宣伝する
  • 包装紙をかわいいものにする
  • 大きさや値段にバリエーションをつける
  • 市場調査する
  • 値段を見直す

まだありますが、「美味しい」とか「ありがとう」と言ってもらえるよう売る/売れる努力はします。

赤い色のソースにイチゴとハーブが飾っています。白いクリームがアクセントになっています。
付加価値を付けるためにより可愛く、より美しく仕上げるサービス業としてのケーキ屋さん

ケーキというのは、もう芸術に昇華していますよね?

サービスとは何か

モノを作ったり売ったりすることは、こういった努力、つまり、利用者に寄り添った商品作り、そして高品質な商品とサービスの開発をするはずです。それは有形無形にとらわれずにです。なぜならば、利用者がいるからです。そしてその利用者がお店を選ぶからです。そのケーキの価値は利用者が決めるからです。そしてさらに利用価値や付加価値が商品の価値を上げてくれます。その結果、作り手であるパティシエの価値を高めます。

そんなケーキしか生き残れないのです。

ところがタクシーはどうでしょう?美味しい不味いは乗車するまで分かりません。それでも値段差があれば許せます。料亭に入ったらカップ麺が出た、ということが起きるのがタクシーなのです。ところが、居酒屋に入ったら1,000円で会席料理が出た、なんてこともありません。

タクシー業界の忘れ物

サービスに関しては、これまで、タクシー業界が何もしなかったというわけではないのです。例えば、キチンとスーツを着て、ドアサービスに接遇の言葉…。一流ホテル並みの接客を目指していた/いるのです。そしてナビによる地理不案内の排除。事前確定運賃による料金トラブル、UDタクシーでのバリアフリー化…。

でも、いつまでたっても個人差=品質差があるのです。ケーキ屋さんなら品質差=価値差になるのに、品質差≠価値差にはなりません。

専門性の喪失

さらに悪いことに、サービス業かどうかという前に、専門性もなくしています。例えば、道を知らなくてもナビがあります。専門性がなくても利用者はいます。

もしこれを読んでいるドライバーがいたなら、サービス業云々の前に、基本ができていますか?あなたはタクシー運転手として最低限のことはできていますか?あなたが売っているのはケーキと言える商品ですか、ということです。

いえ、もっと言えば、ケーキではない商品をケーキだと売っているのが業界なのです。教育にお金をかけていないということです。10日程度の研修で、もう単独乗務開始です。「誰でも入れる」ということまで言われていますよね。街の人たち、試食なしでケーキの形だからとりあえず売ってしまえ、状態なのですよ。

それが現状なのです。その結果が「Uberを」なんて言われるのです。移動手段ならタクシーじゃなくても良いんですよ。品質が伴わないのなら、(宅配や郵便なんて高度な運送業ではなく、移動させるだけの)運び屋で良いんです。そして運び屋ならもっと廉価で良いんですよ。

唐揚げ3ピースの話

最後に、内田樹先生のブログの記事を紹介します。

労働について

 

何年か前、武術家の甲野善紀先生とレストランに入ったことがあった。私たちは七人連れであった。メニューに「鶏の唐揚げ」があった。「3ピース」で一皿だった。七人では分けられないので、私は3皿注文した。すると注文を聞いていたウェイターが「七個でも注文できますよ」と言った。「コックに頼んでそうしてもらいますから。」彼が料理を運んできたときに、甲野先生が彼にこう訊ねた。「あなたはこの店でよくお客さんから、『うちに来て働かないか』と誘われるでしょう。」彼はちょっとびっくりして、「はい」と答えた。「月に一度くらい、そう言われます。」

 

私は甲野先生の炯眼に驚いた。なるほど、この青年は深夜レストランのウェイターという、さして「やりがいのある」仕事でもなさそうな仕事を通じて、彼にできる範囲で、彼の工夫するささやかなサービスの積み増しを享受できる他者の出現を日々待ち望んでいるのである。もちろん、彼の控えめな気遣いに気づかずに「ああ、ありがとう」と儀礼的に言うだけの客もいただろうし、それさえしない客もいたであろう。けれども、そのことは彼が機嫌の良い働き手であることを少しも妨げなかった。その構えのうちに、具眼の士は「働くことの本質を知っている人間」の徴を看取したのである。

 

働く人が、誰に、何を、「贈り物」として差し出すのか。それを彼に代わって決めることのできる人はどこにもいない。贈り物とはそういうものである。誰にも決められないことを自分が決める。その代替不能性が「労働する人間」の主体性を基礎づけている。
その「贈り物」に対しては(ときどき)「ありがとう」という感謝の言葉が返ってくる。それを私たちは「あなたには存在する意味がある」という、他者からの承認の言葉に読み替える。実はそれを求めて、私たちは労働しているのである。

労働について – 内田樹の研究室

  1. 小暮太一,『超入門資本論』,ダイヤモンド社

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