その角を曲がれば

田原寮からトヨタ田原工場までは、西浦橋西交差点を右折して行きますが、その交差点を左折して1キロ程先には田原港があります。そこになにがあるわけではなくて、港があって、埋立地があって、そして海があり、その先には三河湾を挟んで蒲郡などの対岸(対岸というには遠いのですが)の町が見えます。

寮にしろ工場にしろ、こんなに海に近いのに、海の気配が薄いのは、きっと潮騒や汽笛などの海の音が聞こえてこないからだろうと思っていますし、なによりもあの独特のにおいが潮風に運ばれて来ないからだろうと思います。海は見えているのですが。

田原港とその向こうに見える笠山
田原港から笠山

土曜日の夕方、田原港まで散歩。港や埋立地の岸壁には数人の釣り人が糸を垂れている。その中にひとり、暗くなりゆく海を見ている男あり。釣りを見ているわけでもなさそうである。ただ海とその向こうを見ている。男にしか分からない向こう。

男は、時々首を下に向けることがなければ、係船柱と見紛うようで、今まさに、海と空との間で繰り広げられている大自然の眩い営みとは正反対の、ちょうど田舎の駅裏にある、壊れた自販機のような感じがした。

男は、そういう自分の存在が心地良いのだろうか。はたまた、その景色が彼を動かすことを拒んでいるのだろうか。かなりの時間そこにいて、ボクもまたボクで、その男の後姿をじっとかなりの時間見ていたのだが、ボクと男とでは、そこにいる意味があまりにも違いすぎているようで、そのまま同じ場所にいることは、あまりにも失礼ではないかと考えるに至っては、とうとうその風景に背を向けたのである。

同じ空間にあっても、人はそれぞれ違うことを思っていて、ボクには楽しいことも、他の人には悲しい事だってあるのだろうと思うことがある。それを感じられるようになるには、どれだけ悲しいことを経験したかとか、考えたかとかの問題になるのだろうと、思っている。

一竿の風月、たまには港に行って釣りでもしたいと思うのだけれど、釣り針の結び方なんて知らないし、それに、あのゴカイやなんとか虫を触るのも苦手なもんで、二の足も三の足も踏んでいるのである。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA