タクシー乗り場のホームレス
タクシー乗り場にホームレスのお姉さんがいた。嵐の日、お姉さんは憂鬱そうだった。
いつもはペデストリアンデッキのベンチに座ってなにやらひとりごちているのだけれど、雨がその彼女の日課、夕方の唯一の楽しみを奪ってしまっていた。
もう何年も前からそこに彼女はいる。ブツブツとひとり言を言いながら、地面に届きそうな長い髪の先端を見つめている。そこに何があるというわけではなくて、そこを見つめることが一番安全だということを知っているのだ。そうして駅が安全だということも知っているのだ。
20時になると壺屋のタイムセールが始まる。そこに彼女の姿を見ることがある。半額になった弁当や惣菜を買うのか、あるいはセールが終っても売れ残った商品を貰うためなのか、そこにいる。ひとり言は、食事前の祈りのようにも感じる。あるいは遠足前の興奮した子供の饒舌さみたいなものなのかもしれない。
ホームレスの人たちは雨の日には居場所も寝場所にも困ってしまう。
タクシー乗り場のホームレス
その日、お姉さんは駅のタクシー乗り場のところに座っていた。よく赤い服のオジサンが座る場所なのだけれど、その日はお姉さんが雨宿りをしていた。そうして並んだタクシーのほうを見るのではなくて、やはりいつものように、その長い髪の先の地面をジッと見ていて、これまたいつものように口を動かしていた。
失業期間が長かったボクはホームレスになることも考えていた。あの頃、リーマンショックからの派遣切りで失業した人の何パーセントかはホームレスになったのだろう。そして何パーセントはタクシードライバーになった。大手タクシー会社は派遣切りされた非正規社員の人たちを対象に募集枠を広げていた。それは愛知に限ったことではなくて、全国的にそうだった。
ボクとホームレスの人たちは、ほとんど手の届きそうな場所にいる。ボクがそこにいても何もおかしくない話なのだ。いや今後、ボクがそこにいるということも十分考えられる。
それほど一瞬にして人生が狂うということが起こりえる社会なのだ。「すべり台社会」なんて表現する人もいる。セーフティネットなんてものが機能しないと、例えば失業してしまうとそのままホームレスになってしまうということもあるのだ。
タクシー乗り場で人生を考える彼女とボク
ボクと彼女たちの人生にそれほど差があるわけではないと思う。そして今もボクたちが居る場所は同じなのだ。駅という安全な場所で、ジッと待っている。ハンドルを握っているか紙バックを握っているかという、それだけの違いなのだろうと思う。それに、タクシー乗り場のホームレスとボクの距離なんてものも、手の届きそうなところなんだし。
ちょっとだけ人見知りだとか、話下手だとかいう理由でサービス業に就けない人も多いのだと思う。死ぬ気になればなんでも出来るというけれど、それが出来るひとは自殺することも出来る。ホームレスになった人は少し臆病なだけなのだろう。そしてそれよりもう少し臆病なのがボクで、ホームレスにもなれないで、このへんでもがいている。
雨の日に、行き場をなくして彷徨うよりも、いっそどこかから飛降りたほうが楽なのかもしれないと思う。それでもそれが出来ないほど臆病なものだから、こうして「良いお客さんでありますように」なんてひとりごちながら、ハンドルを握っているのだよ。
