DOWN TOWNの看板「prefekture」は正しいのか?
As informed lately,signboard of “Downtown”located in 1-37 Ohashi-dori,Toyohashi City,Aichi Prefekture,
豊橋市大橋通1丁目、城海津交差点にあるDOWN TOWNという古着屋さん(それもおしゃれな)。その立地条件のよさから、多くの人が存在をしているのだろうと思う。信号待ちをしている時には、看板が否応なしに目に入る。
その大きな看板に書いてあるのが文頭の英文なのだ。「当店は愛知県豊橋市大橋通1丁目1-37にあります」ということなのだろうけれど、「Prefekture」はタイポなのだろうか?それとも意図的…。きっとファッション、着古された使用感やビンテージ感をかもし出す演出、創出、造出、描出…。あるいは、こういった話題を湧出するために選出されたもの、案出されたテクニックなのかもしれないし。
なんて考えているんだけれど。これを「誤り」としてしまうと、きっとファッション全てを否定してしまうことになってしまうかもしれない。だって正解なんてないのがファッションだろうし。そういったメッセージなのだろうと思っている。
言語は芸術なので、その意味は作者の意図したものとは遥かに違っていても、特に問題ないのだ。あるいは感覚をいろいろな手段方法で表現するのが芸術なのだから、例えば「prefecture」を「prefekture」ではなくて「жлΘ♯ц」なんて表現したとしても良いわけだし。春を表現するのに「緑色」のペイントを使わなければならないという画家への制限はないだろうし、「A」の音で始めなければならないという音楽家への縛りはないだろうし、「春」と書かなければならないという書家への拘束はないだろうし…。
そういうものなのだ。そして作者の手を離れた瞬間からどう感じるかは受け取る側の自由になのだ。それを「誤り」とだけ捉えてしまうと、もう何も生まれはしない。
「Prefekture」の正否を論議することこそ愚かなのだ。
例えば「prefecture」と書いてしまうと、上記英文中に「c」の文字が多くなりすぎ、視覚的に重くなる。だからあえて「k」にかえることによって、そこを空間を設ける。間とか空気を大切にする日本人にとって、その代替は心地よいバランスになっている、のかもしれない。そう思うのだ。
そしてあの看板は読ませるためのものではなくて、文字は模様なのだ。それを言葉として読もうとしてしまったことこそ「誤り」なのだ。そういう行為はピカソの絵を見て「毎度ありがとうございますって書いてるね」なんて言っているようなものなのだ。そんな人はちょっと変な人と普通は思われるのだ。子供がそういうことを言ったら親御さんはかなり心配するのだ。きっと。
もう少し話すと本場アメリカのDowntownにはそういうスペルミスがかなりあって、それは黒人の文盲率と深く関わっているのだけれど、それを話すと長くなるので、今日はこれまで…。
ということで、あの看板は正しいのだ。そしてあれは芸術なのだよ。きっと。
DOWN TOWN