三河地震と戦争と、そして三河港と
昭和20年(1945年)1月13日、終戦のわずか数ヶ月前、西三河南部を震源とする「三河地震」が発生しました。死者2,306名、全壊家屋7,000棟を超える甚大な被害をもたらし、特に蒲郡市形原地区では200名以上の尊い命が奪われました。
「隠された地震」がもたらした悲劇
しかし、この地震は戦時下という特殊な状況により、軍部による厳しい情報統制を受けました。「国民の士気を低下させない」という名目のもと、被害の実態は公に伏せられました。人々の間では爆撃と誤認して避難が遅れるなどの混乱も生じました。まさに「戦争が地震の被害を拡大させた」のであり、犠牲者の方々は戦争の被害者でもあったのです。
「戦争優先」という危うい空気
当時の社会では、「玉砕」という言葉に象徴されるように、個人の命よりも国家や戦争の継続が優先されました。蒲郡博物館の企画展1に展示された「軍人援護」のポスター2は、実質的な「戦争援護」を促すものでした。生活のすべてが戦争へと塗りつぶされていく中で、人の命はあまりに粗末に扱われてしまったのです。
現代に問われる「特定利用港湾」の指定
今、三河港を「特定利用港湾」に指定しようとする動きがあります。3 インフラ整備や災害対応力の向上というメリットが語られます。しかし、それは軍艦が蒲郡埠頭を利用できるようにすることを意味します。
かつて、豊川海軍工廠では2,500名以上の命が奪われました。港が軍事利用されれば、有事の際には真っ先に攻撃対象となるリスクを孕みます。
過去の教訓を未来への警鐘に
戦争は、関わりの有無にかかわらず、すべての人から命の尊厳を奪い去ります。国家の枠組みが「戦争優先」へと変化していく恐ろしさは、決して教科書の中だけの過去の話ではありません。
三河地震の教訓を語り継ぐことは、今、私たちがどのような未来を選択するのかを問い直すことでもあります。




わすれじの碑 – 形原町.
三河地震による地割れ – 震源地近くに残る地震の爪痕.
震災復興記念碑 – 戦時下の未曽有の災害を伝える碑.
- 「三河湾と戦争と」は、2026年1月10日〜2月23日で開催された。
- 「軍人援護」 | 昭和館デジタルアーカイブ
- 【知事会見】特定利用港湾について(三河港) – 愛知県.