備後林と備後塚 – 丹野城主 萩原芳信ゆかりの地

備後林(びんごばやし)と備後塚(びんごづか)は、戦国時代に丹野城主だった萩原左衛門尉芳信が最期を迎えた場所です。

萩原芳信は文明年間(1469年〜1487年)に御堂山に丹野城を築きました。しかし築城の翌年、文明2年(1470年)に牛久保城の牧野成時(古白)の攻撃を受けます。芳信は山を攻め降りますが、僧徒の裏切りに遭います。そして、この辺りの林で馬上にて自刃し果てたと伝えられています。

芳信を哀れんだ地元の人々がここに塚を築き弔いました。そして、いつしか「備後林」「備後塚」と呼ばれるようになりました。現在も畑の一角に塚と「びんご林」の石柱が残されています。

関連する伝承と史跡

  • 西の宮:備後林から北西にある小祠で、芳信の遺体が埋葬されたと伝えられています。
  • 姫塚:さらに西には、芳信の息女が自刃したと言われる塚があります。
  • 傘松の跡:芳信の乗馬が埋められた場所と伝えられる、伝説の残る松の跡地です(松は現存しません)。
  • 萩原神社・瘡守神社
    • 東側の萩原神社は、芳信の孫が創建したと伝えられます。芳信の2人の男子は落ち延び、その子孫が赤根村の今泉家を継ぎ、萩原神社を創建しました。
    • すぐ北にある瘡守神社は、一説では芳信の笠を御霊依(みたまより)として祀ったのが始まりと言われています。

続海浜独唱 4 (361~396) (三河アララギ叢書 ; 第74篇) – 国立国会図書館
豊川の歴史散歩 – 国立国会図書館

丹野城址と御堂山登山ガイド – 蒲郡の旅

備後林・備後塚の画像

地図・行き方

『宝国山記』には芳信のことを、荒々しい性質で、神社や寺院を破壊し、全福寺も財産や資材を奪われ、それらは軍備に充てたと記しています。また、すべての仏具を溶かして兵器とし、僧侶に甲冑を着けさせて強制的に武装させるなどしたとの記述が見えます。(宝国山全福寺の歴史(『宝国山記』口語訳) – 蒲郡の旅

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