蒲郡の松平家
蒲郡の松平家は、形原松平家、竹谷松平家、五井松平家の三家あり、それぞれの地名の場所を領土としていました。そのいずれもが『寛政重修諸家譜』に記載された松平庶流十四家、いわゆる松平14家です。そして、松平信光の子どもたちが初代になっています。
蒲郡の松平家
松平信光は松平宗家の3代目です。信光には48人の子どもがいたと言われます。そして、その子たちを分立させました(図1)。蒲郡の松平家は、信光の長男・守家、四男・与副、七男・忠景から始まります。

徳川宗家は、信光の次男・親忠が跡を取り、そして徳川将軍家となります。。
竹谷松平家
竹谷松平家は、初代・信光の長男守家から始まり、竹谷城を居城としました。
しかし、天正18年(1590年)、当主である5代清宗の時に、徳川家康の関東移封に伴い、武州八幡山(現在の埼玉県本庄市)へ1万石で移封されました。この地域では、他にも五井松平家が下総飯沼へ、形原松平家が上総五井へと移ることになりました。
その11年後の慶長6年(1601年)、6代家清は三河国吉田藩の3万石の藩主になります。しかしながら、子の7代忠清に継嗣がなかったため、吉田藩は無嗣断絶(除封)となります。その後、家清の次男(忠清の異母弟)である松平清昌が、三河国西ノ郡の領主として封じられ、家系は存続しました。






形原松平家
形原松平家は、松平与副(ともふく)から始まり、形原城を居城としていました。
6代家信の時代、元和5年(1619年)に摂津国高槻藩2万石へと移封となり、形原を離れます。その後、寛延元年(1748年)には丹波国亀山藩5万1千石の藩主となり、廃藩置県までその地(亀山)を居城としました。
菩提寺について
形原松平家の菩提寺は光忠寺です。蒲郡市西浦町にある光忠寺には、初代から5代までの墓所が残されています。6代以降の墓所は、移封に伴い移転した亀山の光忠寺にあります。これは、大名の移封に合わせて菩提寺も移動することが多かった時代背景を物語っています。






旗本形原松平家
元和5年(1619年)、六代家信が摂津高槻へ転封(移動)になったことに伴い、形原城は廃城となりました。城が廃された後、形原領(宝飯郡12か村と幡豆郡逆川村)は、1618年に長沢松平家の松平庄右衛門清直が5000石の地頭として引き継ぎ、形原に陣屋を置きました。これが、旗本形原松平家の始まりです。
上ノ郷松平家
清直の跡を清須が継いだ時(1651年〜1667年)に、清須は弟の松平与一右衛門清明に上ノ郷、柏原の一部、萩村(幸田)の700石を分与します。これが上ノ郷松平家です。
上ノ郷松平家は、明治まで続きますが、延宝元年(1673年)に旗本形原松平家三代松平三十郎信実が嗣子なく、旗本形原松平家は断絶しました。
五井松平家
五井松平家は、松平忠景から始まります。その長男元心(もとのぶ)が五井松平家を、次男忠定が深溝松平家へと家系を継承していきます。
5代影忠とその子**伊昌(これまさ)**は、長篠の戦いの際に籠城戦を戦い抜きました。その後、6代目となった伊昌は、徳川家康の関東移封に伴い下総国に移封されます。
居城と菩提寺
五井松平家の居城である五井城は、蒲郡市五井にあったとされ、現在の八幡宮や眞清寺のあたりがその跡地と伝えられています。また、御宮池は五井城の堀跡だとされています。
近くの長泉寺は、五井松平家の忠景、元心、信長、忠次、影忠の墓所となっています。







参考文献・ウェブサイト
