池田輝政の刻印石と八王子神社の石垣
池田輝政の刻印石は、西浦町の八王子神社にあります。具体的には、社務所前に置かれている沓脱石(くつぬぎいし)として使われているものがそれです。
言われなければ気づかずに通り過ぎてしまうほど、周囲の建物や風景に溶け込んでいます。何を隠そう、私も一度目の訪問では見逃し、二度目の訪問でようやく確認できたほどです。
池田輝政の刻印石
この刻印石は、なんと2006年に「発見」されたものです。つまり、長きにわたり、誰もその歴史的価値に気づいていなかったということになります。発見したのは、地元の研究家である壁谷(かべや)さんでした。(西浦で見つかった刻印石の多くは、壁谷さんの功績によるものです。)
三河湾沿岸と名古屋城築城
東日新聞の記事には、以下のように記されています。
「同市の西浦半島や中心地の竹島海岸、隣接する幡豆町、吉良町の海岸一帯は石材の産地として知られ、名古屋城築城の際に徳川家の歓心を買うため、池田輝政や福島正則のほか加藤清正や毛利輝元ら外様大名も競って石を求めたという。」
(引用元:蒲郡で池田輝政の刻印入りの石発見 | 東日新聞より)
八王子神社の刻印石は、この記事にあるように、外様大名たちが徳川家康の名古屋城築城に際し、資材調達に尽力した歴史を今に伝える貴重な史料なのです。
採石場跡と残された歴史の痕跡
その石を切り出した採石場(石丁場)が、西浦海岸や竹島海岸に残っています。これらの採石場跡には、福島正則、加藤清正、毛利秀就といった大名の刻印石があると言われ、石を割るための穴(矢穴)の跡が残る矢穴石が数多く残されています。
三河湾沿岸は石材の産出地であり、船での運搬を考えると非常に効率の良い場所でした。これらの痕跡は、この地方が近世初期の日本の歴史を支えた重要な拠点であったことを物語っています。

池田輝政の刻印石画像
八王子神社石垣の石には、加藤清正の家臣「中川太朗平」「小野弥次郎兵衛」の名前が記されています。(画像「石垣の文字」ですが、近くで見ても分かりませんでした。)また、西浦中学校の校訓碑の台座石も残石が利用されています。
*画像「解説板」は、西浦海岸に設置されているものです。





