安礼の崎と高市黒人歌碑 – 西浦町

安礼の崎(あれのさき)は、『万葉集』に詠まれた地名です。具体的には、『万葉集』巻第一の第58番歌、高市連黒人(たけちのむらじくろひと)が詠んだ「いづくにか船泊てすらむ安礼の崎漕ぎたみ行きし棚無し小舟」(漢字本文:何所尒可船泊為良武安礼乃埼榜多味行之棚無小舟)の「安礼乃埼」を指します。

その所在地については、主に次の三つの説があります。

  1. 西浦半島説
  2. 御津町御馬説
  3. 遠江説

西浦半島説とは、ここ稲村神社の御前崎を指します。地元では古くから、この地こそが歌に詠まれた安礼の崎であると信じられています。そのため、現在、看板や歌碑が建てられ、「万葉の小径」として整備されています。

歌碑の解説と所在地への考察

この地に建てられた高市黒人の歌碑の隣には、万葉集の研究者であった津之地直一(つのじなおいち)氏による解説碑があります。

大宝二年(七〇二年)持統天皇は十月から十一月下旬にかけて三河の国に行幸なさった その時おともをした高市連黒人の詠んだ歌である歌中の「あれのさき」の所在についてこれを海上航海中の歌と考え土屋文明氏また御津磯夫氏はこの地御前崎をあれのさきとすべき最適地ではないかとその著「続万葉紀行」並びに「引馬野考」に詳説想定して居られる その海上実景の印象からもこれまた尊重すべき説となるのである

この解説にあるように、土屋文明氏は、著書『続万葉紀行』の中で、「安礼の崎は、伊勢から三河の国府付近の海岸に至る間の海上に求めるべき」とし、歌の表現である「漕ぎ廻み行きし」という言葉にふさわしい地形として、この御前崎を最適地として詳説しています。

歌碑の揮毫が、この説の提唱者の一人である御津磯夫氏であることも、地元での確信の深さを物語っています。実際に海上から景観を眺めると、「崎」という名にふさわしい地形は、御津方面よりもこの御前崎ではないかという説得力があります。

安礼の崎の所在3説 – 蒲郡市

西浦半島 安礼の崎の黒人歌碑
高市黒人歌碑

安礼の崎の画像

地図・行き方

万葉の小径にある朝日が輝く丘の東側にあります。


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