形原城址と古城稲荷社- 形原町

形原城址は、海を望む小高い山(稲生海岸の岬)に位置し、三方を海に囲まれていることから、稲生城や海苔城とも呼ばれていたと言われています。

形原城については、「平安時代の終わり頃、清和源氏義光の孫の形原二郎師光が東古城を築いたと伝えられています。その後、長享年間(1487〜1489年)に、松平三代信光の四男与副(ともすけ)がここに移り「形原松平」と称しました。北古城と南古城は、この時代に築かれました。」(形原城址解説板より)と記されています。

形原松平家の成立と終焉

松平三代信光には与副を含め48人の子がいたとされ、彼らを各地に分立させました。文明12年(1480年)ごろ、四男の与副が形原に移り、形原松平家が始まります。

しかし、元和5年(1619年)、六代家信が摂津高槻へ転封(移動)になったことに伴い、形原城は廃城となりました。

形原松平家系図
形原松平家系図

廃城後の形原領と上ノ郷松平家

城が廃された後、形原領(宝飯郡12か村と幡豆郡逆川村)は、1618年に長沢松平家の松平庄右衛門清直が5000石の地頭として引き継ぎ、形原に陣屋を置きました。

形原領を継いだ清直の跡を清須が継いだ時(1651年〜1667年)に、清須は弟の松平与一右衛門清明に上ノ郷、柏原の一部、萩村の700石を分与します。これが上ノ郷松平家です。

しかし、延宝元年(1673年)に三代松平三十郎信実が嗣子なく、旗本形原松平家は断絶しました。

(与副を祖とする形原松平家は大名になり、そのあとに領主となった旗本形原松平家は断絶しました。分家である上ノ郷松平家はその後も続きました。松平家が多いのでややこしいですね)

墓所と城址の現在

形原松平家の初代与副から五代家忠までの墓所は西浦町の広忠寺ですが、六代以降は亀山の広忠寺にあります。

現在、形原城址には、「形原城址 愛知県」の史跡碑があり、古城稲荷が祀られています。そして、蒲郡市指定史跡になっています。

お妙塚 – 形原町 – 蒲郡の旅

形原城址の画像

地図・行き方

形原城址(古城稲荷社)鳥居までは車道があり車で行けます。しかし駐車場がありません。また、公共交通利用の場合は西浦駅からのほうが近いようです。

形原城の物語 蒲郡市

蒲郡市誌 本編 – 国立国会図書館


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