お妙塚:形原城址に語り継がれる乳母の慈愛

形原松平家の居城であった形原城址の一角に、「烈婦 お妙塚」と刻まれた石碑が静かに佇んでいます。ここに祀られているのは、形原松平家六代・松平家信(幼名・又七郎)の乳母であったお妙。彼女は、かつてこの地で起きた凄惨な事件から主君を救った、一族にとっての大きな恩人でした。

身を挺して守った幼き主君——「守護神」となった乳母の最期

天正9年(1581年)、形原城内で松平家信を狙った暗殺計画が実行されます。その時、迫りくる刃から幼き主君を身をもって守り、自ら命を落としたのが乳母のお妙でした。

その忠義に深く感じ入った形原松平家は、「この城が続く限りの守護神」として彼女を城内のゆかりの地に手厚く葬りました。墓標の代わりとして植えられた一本の桜は、いつしか「お妙桜」と呼ばれ、人々に愛されながら彼女の魂を慰め続けてきました。昭和15年に建てられた石碑の隣には、古びた五輪塔が並び、その佇まいからは「烈婦」という言葉の裏にある、深く温かな母性愛が伝わってきます。

恩義を背に歩んだ躍進の道——下総佐倉藩四万石への軌跡

お妙の献身によって命を繋いだ松平家信は、その後、武将として華々しい功績を挙げます。小牧・長久手の戦い小田原征伐で目覚ましい武功を立てると、天正18年(1590年)の徳川家康の関東移封に伴い、上総国五井にて五千石を与えられました。

彼の歩みは止まらず、元和4年(1618年)に一万石の大名へと昇格。翌年には摂津国高槻藩二万石、さらに寛永12年(1635年)には下総国佐倉藩四万石を領するまでになります。形原松平家が大大名への道を突き進むことができたその背景には、あの日、城内で散った一人の女性の揺るぎない覚悟がありました。

お妙塚の画像

地図・行き方

形原城址(古城稲荷社)鳥居までは車道があり車で行けます。しかし駐車場はありません。公共交通利用の場合は、西浦駅からのほうが近いようです。西浦駅〜形原松平家の菩提寺広忠寺〜形原城址と巡るのがおすすめのコースです。

参考文献
蒲郡史談 – 国立国会図書館デジタルコレクション

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