漂泊の俳人・山頭火と鳳来寺
種田山頭火が鳳来寺を訪れたのは、昭和14年(1939年)4月22日です。六年間過ごした「其中庵(ごちゅうあん)」を去り、山口県湯田温泉の「風来居(ふうらいきょ)」に移り住んだのが、前年の年昭和13年10月です。
その風来居から東に向かって旅立ちます。広島、名古屋、刈谷、そして知多半島から伊良湖へと渡ります。井上井月の墓参を目的とした東下りの旅の途中でした。
4月21日に豊橋に着き、鈴木折嶺氏の居宅に泊まります。4月22日、豊橋から電車で豊川まで行き豊川稲荷を参詣します。それからさらに鳳来寺鉄道、田口鉄道と乗り継いで鳳来寺を訪れます。
山頭火と鳳来寺、三つの句碑
山頭火は鳳来寺で16句を詠んだとされ、現在そのうちの4句が、表参道沿いに三つの句碑として建立されています。
山の青さ大いなる御仏おはす
山の生命力を感じさせる一句です。
春雨の石仏みんな濡れたまふ、水音の千年万年ながるる
鳳来寺山自然科学博物館入口にあり、石柱の二面に刻まれています。
たたずめは山気しんしんせまる
山の冷気と静寂が伝わる一句です。 これらは昭和63年(1988年)、山頭火の50年忌を機に「三河知多山頭火の会」によって建立され、碧南市の岡島良平氏が揮毫を務めました。
本堂に掲げられた「山頭火献詠」の俳額
本堂前の休憩所には、同じく50年忌に奉納された「山頭火献詠」の俳額が掲げられています。ここには山頭火が鳳来寺で詠んだとされる16句すべてが記されており、漂泊の俳人がこの山の自然や静寂に何を想ったのかを辿ることができます。
伊那への旅路:井月の影を追って
鳳来寺を後にした山頭火は、再び豊橋に戻ります。翌日、浜松、二俣を経て、三信鉄道の白神駅から長野県伊那へと向かいました。
山頭火が鳳来寺を訪れたのは、往生を遂げるわずか1年前のことでした。その後、松山の「一草庵」へ移り住んだ彼は、昭和15年10月に58歳でその生涯を閉じます。
亡くなる直前の『一草庵日記』には、「芭蕉や一茶よりも、常に路通や井月のことを考えている。彼らの酒好きや、その最期に思いを馳せている」という趣旨の独白が遺されています。名声ある文人よりも、孤独の中で野垂れ死ぬことを厭わなかった漂泊の先達に、自らの運命を重ねていたのでしょう。
念願だった井上の墓前に立った山頭火は、「駒ヶ根まえにいつもひとりでしたね」という句を捧げました。この一句には、信州の空の下、孤独に歩き続けた井月への深い敬意と、同じ道を歩む者としての静かな連帯感が込められています。
山頭火・鳳来寺16句
- トンネルいくつおりたところが木の芽の雨
- ここからお山さくらまんかい
- たたずめは山気しんしんせまる
- 春雨の石仏みんな濡れたまふ
- 石段のぼりつくしてほつと水をいただく
- 人声もなく散りしいて白椿(薬師院)
- 霧雨のお山は濡れてのぼる
- お山しづくする真実不虚
- 山の青さ大いなる御仏おはす
- 水があふれて水が音たてゝ、しづか
- ずんぶりぬれてならんで石仏たちは
- 水が龍となる頂ちかくも
- 水音の千年万年ながるる
- 石だん一だん一だんの水音
- 霽れるよりお山のてふてふ










